第一章―アジアの音楽史「江戸歌舞伎はチンギスハーンがいなかったら誕生しなかった!?という物語」 その11

大野遼のアジアの眼

NPOユーラシアンクラブ 会長 大野 遼

【チベットのダムニェンがウィグルの火不思の起源か?】

―吐蕃(チベット)とウィグル、唐が国境画定した際にダムニェン、火不思、琵琶が領域のシンボル楽器に―

 前号で、中国の三弦の起源は、トルコ系の楽器火不思(クーブース)やチベットのダムニェン。原型はキルギスに残ると紹介した。この号では、その歴史的背景を記す。  岸辺成雄氏(故人)が取り上げたのはトルファン出土の布画に描かれた子供が手にする楽器であった。岸辺氏はこれを「回部(イスラム)」の楽器としているが、トルファン布画に描かれていたのは鬼子母神像の周りを囲むように描かれた子ども8人(?)の画像の一つである。言うまでもなく、鬼子母神は仏教的神話の題材の一つであり、これは仏教信仰に伴うものであり、回部(イスラム)のものではない。回部については稿を改めて記したい。  この布画は、中国音楽文物体系(新疆巻)に掲載されており、東京ウェルネススポーツ大学バー・ボルド准教授の翻訳によれば、下記のとおりである。

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 「時代:紀元7―8世紀。保存先:ドイツ・ベルリン民俗博物館。考古資料:同絵画は、ヤール湖石窟で出土した、麻布画である。今世紀(20世紀)初めにドイツの探検隊が発掘し、ドイツに持ち帰ったものである。」とされ、布画の内容としては「この絵画は、「鬼子母因縁」の故事によるものである。故事のあらすじは次のとおりである。

大清会典図の火不思の画像

大清会典図の火不思

インド王城に一人の妊娠した牛飼いの女がいた。盛会に行くために堕胎したため、悪が発生し、来世に王城内の幼児を食い尽くしてしまう。後に夜叉として降誕し、訶梨帝(Helidi)と名付けられた。漢語では、鬼子母という意味である。のちに男夜叉と結婚し、五百人の子供を産んだ。鬼子母は、毎日幼児を一人捕食していたが、自分の子供に対しては益々愛情を注いでいた。城内の民衆は、仕方がなく仏様に願い、助けを求めた。仏様は神力に用いて鬼子母の子供たちを隠してしまう。鬼子母は、仏様に子供たちを返すよう頼むと、仏様は、鬼子母に対して、悪を働けば必ず復讐されるという道理を説いた。鬼子母はすぐに悟り、のちに仏教の幼児守護神となった。その具象は、美しい女性として変化した。仏教の彫像のなかで、鬼子母は幼児を抱えて乳を飲ませており、身辺にたくさんの幼児がいる。・・・(この絵画の)鬼子母の左右に8体の裸の子供がいる。子供たちは、遊んでいたり、楽器を弾いていたりしている(図2.8.12a)。その中で、一人の裸体の子供は、地面に座り、頭をやや右側に向け、両手で火不思を弾いている。火不思は、四つの横木があり、共鳴箱は円形をしている。上部には角があり、頸部は曲がっている。その形と構造は『大清会典図』所蔵のものに似ている(図2・8・12a)。」  以上が、岸部氏が取り上げた布画の全容である。この布画を描いたのは誰なのか。やはりトルコ系の子どもを視野にした画工を作者にするしかない。形態のよく似た楽器チベットのダムニェンとの関係も気になる。この遺跡出土の布画が7世紀〜8世紀に描かれたものとすれば、当時のトルファンの時代背景を理解しなくてはならないが、この時期のアジアははなはだ流動的である。  7世紀の前半、アジアの西では、622年にイスラム教団が誕生しイスラム革命が進行し、ササン朝ペルシャを651年滅亡させ、中央アジアに進出したイスラム帝国は、750年アッバース朝の時代となっていた。一方アジアの東では、618年には隋から唐へ王朝が交替している。640年、トルファンの?氏高昌を滅ぼした唐は、657年には、西突厥を滅ぼし、西域経営乗り出していたが、南のヒマラヤから北進してきた吐蕃(チベット)に攻められ670年、一時、トルファンは吐蕃の支配するところとなり、692年、再び唐が取り戻すが、722年には、タリム盆地の縁辺のオアシス都市(四鎮)が吐蕃によって攻略された。  またアジアの北方では、6世紀に入ってトルファン西北のボグダ山に拠点を築き、562年モンゴル系の柔然から独立、渤海湾からアラル海までの突厥帝国を築いていた。トルコ系突厥は、近年モンゴル系とも言われる鮮卑系の中国王朝(北周、北魏、隋、唐)と、敵対と和親を繰り返して、582年の突厥分裂後、東突厥第一帝国は、隋の崩壊と唐朝の成立(618)に影響を与えた。630年、力が衰え唐朝の配下に入り、力を回復し再び独立した東突厥第二帝国(682年)は、則天武后の周を攻め、唐朝の復帰に影響を与え、玄宗皇帝時代の唐と絹馬交易を進めた、ホショ・ツァイダム碑文で知られるビルゲ・カガン、キュル・テギン兄弟王の後、内乱が生じ、744年、回?(ウイグル),葛邏禄(カルルク),拔悉蜜(バシュミル)の3部族が東突厥第二帝国の烏蘇米施可汗(オズミシュカガン)を討ち、オズミシュカガンの弟である最後の白眉可汗が玄宗の差し向けた節度使に殺されると、東突厥は亡びた。ウィグルとカルルクは、バシュミルを討ち、カルルクは則天武后以来設置されていた北庭都護府を拠点に天山山脈北部でウィグルに臣従し、東突厥の旧領は回鶻可汗国に替わった。8世紀後半のことであった。

● 激動の7〜8世紀を抜けてチベット(吐蕃)とウィグル、唐が三つ巴の国境争い

 こうして西方にイスラムのアッバース朝、南に吐蕃、北にウィグル、カルルク、東に西域経営を目指す唐が、トルファンを含む中央アジアをはさんで、三つ巴、四つ巴の覇権を争う背景で起きたのが751年天山山脈北西のタラスの戦いであった。しかし上記カルルクは、タラスの戦いではアッバス帝国側に付き、唐の敗北の要因となった。  そしてタラスの戦いの4年後、755年11月、ソグド人と突厥の混血であった安禄山が、同じソグド系突厥人の史思明と組んで、玄宗に反乱を起こした安史の乱(763年、ウィグルの援助で終結)が起きており、この前と後では、トルファンの周辺環境は異なる。以上を整理すると下記のとおりである。

キルギスの楽器コムズ

キルギスの楽器コムズの画像
チベットの楽器ダムニェンの画像

チベットの楽器ダムニェン

  1. 7世紀の前半は、●(麹の左上が來)文泰の●(麹の左上が來)氏高昌(640滅ぶ)。629年、玄奘三蔵がトルファンに立ち寄る。
  2. 7世紀半ば〜後半は、唐の西域経営。657年西突厥滅亡。東突厥は唐の支配下。670〜692年吐蕃の支配下
  3. 8世紀前半は、吐蕃がタリム盆地(四鎮)を攻略(722)。744年、ウィグル、カルルクが東突厥第二帝国に交替。
  4. 8世紀半ばから後半、751年タラスの戦い、755〜763年安史の乱。この頃トルファンはウィグルの影響下にあったが、吐蕃がトルファン一帯や唐朝を襲っていた。764年ウィグルと吐蕃が唐朝内部の僕固懐恩と組んで唐朝に反乱。

 吐蕃という国は、ソンツェン・ガンポ王(在位:581年 - 649年)の時、チベットを統一、ネパールと唐から嫁いだ2王妃の勧めで仏教に帰依した。吐蕃の首都ラサにはトゥルナン寺(ジョカン、大昭寺)が建立されており、ティソン・デツェン王(在位:742年 - 797年)の代には仏教が国教と定められ、国立大僧院サムイェー寺が建設されて、インドのナーランダー大僧院(那爛陀寺)の長老シャーンタラクシタが招聘され、パドマサンバヴァが密教を伝えた。安史の乱に介入し763年長安を一時占拠したのは吐蕃のティソンデツェン王の時であった。

● 吐蕃(チベット)とウィグルと唐が修好、敵対、会盟の末に国境画定: 8〜9世紀にトルファンはウィグルの領域となる

−8世紀の半ばにダムニェン誕生、ウィグルに伝わり弦楽器火不思の起源となったか?−

 7世紀〜8世紀のものとされる鬼子母神と子どもを描いた仏教的布画に描かれたトルコ系の楽器火不思はどのような経緯で描かれたのであるか、以上のような優勢な勢力がしのぎを削る戦乱の興亡史だけではうかがい知れないのである。  しかし、三弦の起源とされるトルコ系の火不思と三弦のもう一つの起源とされ、火不思と形態がよく似ているチベットのダムニェンを、上記の歴史的背景と重ねてみると、一つの空想が浮かぶ。  火不思は、現在北方ユーラシアで広く、コムズ、コムス、ホムス、クーブーズなどと呼ばれる楽器であるが、実は、シベリアのトルコ系の民族サハの楽器ホムスは口琴、キルギスのテミル・コムズも鉄の口琴、キルギスでは弦楽器をコムズと呼ぶ。トルコ系民族の中における火不思は、元々口琴を指し、弦楽器を火不思もしくはコムズと呼ぶのは後からなのか、弦楽器を火不思もしくはコムズと呼ぶのが先で、口琴をホムスやテミル・コムズと呼ぶのが後からなのかは、今のところ「断定しがたい」(直川礼緒・日本口琴協会会長)という。  しかし、ヤール湖石窟で発見されたトルコ系楽器火不思とチベットの楽器ダムニェンが形態的に酷似していることから、ダムニェンと火不思の関連は強いものと考えるのが普通である。チベットのダムニェンがいつから使用されていたか、どのように誕生したかは、今のところわからない。しかし上記のようにチベットへの仏教の本格的な伝来は、「ティソン・デツェン王の時、8世紀の後半にインド哲学の巨匠シャーンタラクシタと大密教行者パドマサンバヴァを招聘。当時隆盛を極めていたチベットの古代帝国は、国家の指導理念を仏教に求め、寺院や僧侶に手厚い保護を加えた。ごく短期間に膨大な経典をチベット語に翻訳するなど、奇蹟的な偉業の数々が達成されたのは、まさに国運を賭けて進めた仏教化政策の賜物である」(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 チベット仏教の歴史)。この時期に、楽器ダムニェンがチベット仏教の儀式で使用される楽器として誕生し、ウィグルを通してトルコ系楽器火不思が使用されるようになったのではないかと想像する。  第一に、元々ウィグルを含めトルコ系民族の間には、火不思と呼ばれる弦楽器はなく、「楽器」という意味の火不思は、口琴のことを指していた、と考える。  第二に、玄宗皇帝が長安から脱出し、楊貴妃を殺害するという安史の乱では、ウィグルが唐朝へ兵を送り反乱鎮圧に協力している。ウィグルが唐朝へ加担したのは、ソグド系突厥へのウィグルの反発も背景にあったと想像される。玄宗から帝位を譲られた粛宗は唐朝内部のトルコ系武将、僕固懐恩を含む使者を派遣し、ウィグルの援助を取り付けている。最後の段階でウィグルの寝返りを防ぎ唐朝の支援を継続させたのも懐恩であった。その懐恩が、安史の乱後に、唐朝内部で謀叛の疑いをかけられて、やむなく唐朝に反旗を翻すことが起きている。この時に実は、ウィグルとチベットは懐恩と手を組んで一緒に行動している。  第三は、敵対から吐蕃、ウィグル、唐三国会盟へ移行した歴史である。765年に懐恩が病死すると、ウィグルは再び唐に付き、チベット軍を大破したことから、チベットはウィグルの仇敵となった。森安孝夫大阪大学教授によると(「シルクロードと唐帝国」講談社)、「チベットのほうは764年に涼州を奪取してから順々に西へ歩を進め、最後まで唐勢力が孤塁を守っていた沙州(敦煌)を786年に占領して河西回廊を完全に掌握し、以後はロブノール地方〜コータン地方のタリム盆地南縁部(西域南道)への進出を本格化させていく。そして789年、チベット軍は天山北路にいたカルルク・白服突厥の軍も率いて北庭地方を襲撃し、まずはウィグル軍に勝利してそれをモンゴリアまで退却させるのである。それまでウィグル側にいた沙陀突厥もチベットに降った。以後792年まで一進一退が繰り返されるのである・・・」とし、北庭都護府争奪戦(789〜792)が、吐蕃とウィグルの間で繰り広げられた。その結果最終的勝利はウィグルに帰したという。ウィグル、吐蕃、唐の8世紀後半から9世紀初頭の国境線画定に至る歴史の解明は森安教授の功績である。  従来、チベットのラサ大昭寺にある唐蕃会盟碑{821年協定}は、「大唐」と「大蕃」が台頭に国家間の対応の在り方を定めたもので、安史の乱の終末763年には吐蕃が一時長安を占領するなど、西域でウィグルと覇を競ったチベットの力が現われているとされている。森安教授は、パリに所蔵される敦煌文書の断片ペリオ三八二九番に「盟誓得使三国和好」と記されているのを発見、中国の研究者李正宇がサンクトペテルブルグに所蔵される敦煌文書断片(DX.1462)がもともと一つの文書で、「三国会盟の実在だけでなく、当時のチベットの領土が河西回廊北方のエチナまで広がり、そこが国境線だったことが判明した」とまで突き止めた。森安教授は、ラサの会盟碑のほか、モンゴル国と中華人民共和国の国境にあるウィグル語、ソグド語、漢文で書かれたセブレイ碑文を、ウィグル、唐、チベットの三国会盟を記念した碑と指摘している。  上記の森安教授の研究成果を踏まえると、唐を間に、ウィグルがチベットと修好し、敵対し、三国会盟に至る過程でウィグルとチベットの文化の交流がなかったとは言えない。アッバース朝と唐朝の歴史的タラスの戦いですら、印刷技術の西方伝播もあった。その中で、チベットの国教となった仏教の儀式で使用されていたのがダムニェンだったとしたら、これがウィグルに形態のみ酷似する火不思に形を変えて、トルコ系の楽器としてウィグルに伝わらなかっただろうか。これは想像である。吐蕃が最初にトルファンを攻略したのは670年であるが、この後、682年の突厥第二帝国の頃にもトルコ系国家とチベットの接点がありえた。いずれにせよ、7世紀〜8世紀の突厥からウィグルへのトルコ系帝国の範図が移行する時期にチベットとトルコ系の人々との戦乱以外の文化的邂逅のチャンスはあったと想像される。  トルファン周辺は、古来ペルシャ系ソグド商人が活躍するシルクロードの拠点であり、突厥時代、ウィグル時代を通して、トルコ系民族、唐朝、チベットがしのぎを削る要地であった。8世紀の末にウィグルの掌中に決着していたのである。  以上、後に、火不思が三弦の起源とされるのだが、形態の酷似するダムニェンが元朝の時代だけでなく、火不思自体の起源となっていた可能性について考えた。ダムニェンがティソン・デツェン王の時までにチベットで誕生していたと仮定した場合のことである。

8〜9世紀に出現したアジアの楽器地図のイメージ画像

【イメージ画像】左上からウィグルの火不思、右中が唐の琵琶、左下がチベットのダムニェン 8〜9世紀に出現したアジアの楽器地図

 つまり火不思は、南から吐蕃の影響力が及ぶ中でトルコ系国家の中に生まれたものと考えたい。ソグド人が伝えたペルシャ系の楽器琵琶は、玄宗らが愛用する、唐朝の皇帝の楽器となっていた。吐蕃の楽器がダムニェン、そしてウィグルの楽器が火不思と、国境画定に伴い、それぞれの領域における象徴的楽器も定まったという空想である。8世紀の後半、安史の乱以降、ウィグルと唐とはよく連携し、吐蕃と戦っている。ウィグルが吐蕃と戦い勝利し、急速に仏教化しており、唐人の往来も盛んだったと想像される。後に、天災とキルギスの侵攻で、840年、天山山脈東部にモンゴリアから西に移動し天山ウィグル王国(西ウィグル王国)を建てたウィグル人がマニ教から仏教を捧持するようになり、天山東部地域に定着した時に火不思はトルコ系民族の間で広く流通したのだろう。国境画定の頃には、天山山脈東方には、吐蕃、唐、ウィグルという3つの仏教国があったことになる。琵琶、ダムニェン、火不思は仏教文化に伴うシンボル的楽器であったと想像する。  次号では、アジアの中におけるチベット、トルコ、モンゴルについて引き続き記す。

その12に続く

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