第一章―アジアの音楽史「江戸歌舞伎はチンギスハーンがいなかったら誕生しなかった!?という物語」 その10

大野遼のアジアの眼

NPOユーラシアンクラブ 会長 大野 遼

【三弦の起源は南方ではなく北方起源】

―大都を中心に大三弦、日本に伝わったのは南方・福建省の小三弦。起源は火不思、原型はキルギスに残る―

 中国における三弦の誕生と琉球の三弦について記す。これはアジアの音楽史そのものでありアジア史の賜物だった。三弦誕生の背景となるアジア史については次号で記す。  前号で、琉球の三線は、明代初頭、朱元璋の求めに応じて始まった朝貢貿易の中で、のちに久米三十六姓と呼ばれた福建省出身者から伝えられたことを紹介した。中国の三弦の誕生については、この福建省出身の王耀華氏(福建師範大学副学長)が執筆した「中国の三弦とその音楽」に詳しいが、三弦の起源についての考察は故岸辺成雄氏(元東洋音楽会会長)に負っている。

● 三弦の起源は「トルコ系楽器火不思(クーブース)」、原型はキルギスの楽器に残る

 中国→琉球→堺と伝わり、琵琶法師澤住検校の手のひらで誕生した「琵琶の撥でたたく三弦」三味線と琉球の三線、近世の中心的楽器となった三弦のふるさと中国では、三弦はどのように誕生したのだろうか。  これまで日本では、ニシキヘビを三弦の胴の皮に使用しているなどから「南方起源」と語られることが一般に多い。中国でニシキヘビを胴皮とする楽器が江南地方から琉球に伝わり、堺に伝わったという点では、「南方起源」というこの常識の一面は正しい。しかしこれも常識の間違いに属する。

トルコ系の楽器火不思(クーブース)の画像

トルコ系の楽器火不思(クーブース)

キルギスの国民的楽器コムズの画像

キルギスの国民的楽器コムズ

 琉球に三線を伝えた中国で三弦が誕生したのは、モンゴルが中国を支配した元の時代(1271−1368)の末とされる。 しかしこの三弦について、日本や中国の研究者が主たる起源と語っているのは北方草原の楽器「トルコ系民族のクーブース(火不思)」である。そしてアジアでは現在までこのトルコ系の楽器を継承し、原型を最もよく伝えている楽器は「キルギスの民族楽器コムズ」である。 キルギスというトルコ系民族は、元アルタイ山脈で遊牧していた騎馬民族で、9世紀にモンゴル高原にいたウィグル族を追って、一時モンゴル高原を支配し、のちに移動を続け、15世紀以降天山山脈一帯を拠点として、現在中央アジアのキルギス共和国として独立した国の多数を構成する人々のことである。 キルギスによって追われたウィグルはモンゴル高原から9世紀、多くが西方に移動し、天山ウィグル王国を形成した。  モンゴルが中国を支配した元の時代は、モンゴル帝国の遊牧系民族の一つのウルスとして帝国を構成していた。モンゴル時代の「トルコ系楽器クーブーズ」がまず元の支配的民族モンゴル族の間に広がり、漢民族の間に普及した。そしてクーブーズが原型となって三弦が誕生したという。そして元の支配下に入った諸民族の間に広がった。この諸民族の中には、現在の中国の少数民族を含め、ベトナムなど東南アジアも含んでいる。要するに三弦の起源は北方草原のトルコ系民族の楽器「火不思(クーブース)」であり、南方起源ではないということになる。

トルファン出土布画にある火不思の画像

トルファン出土布画にある火不思

 この三弦の起源となった楽器についての考証で、「古代シルクロードの音楽」の著者故岸辺成雄氏は、古く漢代からあるシルクロードの都市国家トルファン付近で出土した布画に子どもが弾く弦楽器に注目。「白く丸い胴は、おそらく羊皮が張ってあるのであろう。頚部がいったん膨らんでから、曲線を描いて細くなりながら長い柄をなし、先端の糸巻き箱には、四本の糸巻きが、一方から差し込まれている。西域、中国、インド、イランの古代には類例がない。前出のガンダーラのギター形リュートであるが、やはりいちじるしくちがう」と記した。  その形状は、「近世チベットの壁画にもあらわれ、現在もダムニアンと称して、民族楽器として使われているのにそっくりなのである」と記し、元代には「回部(イスラム)」の楽器、清代には蕃部の楽器・「火不思」として紹介されていることに注目した。  「この火不思が、トルコ語クーブーズqubuzの音訳で、イスラム時代のアラビア楽書にも、細密画にもあらわれることから察するに、この弦楽器は、隋唐あるいはそれ以前から、外蒙古、中央アジア方面にいたトルコ族の楽器で、後世、それらの地がイスラム音楽圏に、包含されるようになっても、昔の姿を残しながら使われたと考えることができる」と判断した。  その上で、「中国の三弦があらわれるのは、元時代の末らしいのだが、胴に蛇皮を張り、細長いさおを差込み、四弦でも五弦でもなく、三弦を張るというこの楽器が、突然中国に現れたとするよりも、外来楽器の影響の下で、発明されたとする方が、妥当のように思われる。火不思はそのような外来楽器の、一つの候補者ではないか」と、中国の三弦(琉球の三線、日本の三味線の起源とされる)の起源について初めて記した。この中国の三弦の起源については、金城厚・沖縄県立芸術大学教授も「いちばん有力な説では、中国の北方にいた遊牧民たち、つまりモンゴルのあたりに住んでいたトルコ系の民族の間で使われていたクーブーズという楽器が三弦の直接の原形とみられる。・・・クーブーズは元代に中国に伝わったとみられ、詩にも歌われている。それ以降、三弦は漢民族の間に急速に広まって、明、清の時代を通じて、語り物や劇音楽に盛んに使われるようになった。・・・中国大陸の音楽の歴史が詰まった楽器として生まれた三弦は、さらに東進して日本の、沖縄の音楽を大きく塗り替えた。三弦・三線・三味線は、近世の東アジアに大きくまたがる音楽のかけはしだといえよう」「ヤマトンチュのための沖縄音楽入門」と記している。  コムズを含め、ホビスなど類似の名称で語られる楽器は北方ユーラシアを中心に多く、弦楽器だけでなく、口琴や形状の違う楽器が知られている。岸辺氏が指摘したトルファン出土の楽器の特徴「頚部がいったん膨らんでから、曲線を描いて細くなりながら長い柄をなし、先端の糸巻き箱には、四本の糸巻きが、一方から差し込まれている」は、中国芸術研究院音楽研究所にある明代考古資料の楽器「火不思」そのものであり、岸辺氏が指摘したチベットのダムニアンをのぞけば、岸辺氏が三弦の原型として指摘した楽器「クーブーズ」、「隋唐あるいはそれ以前から、外蒙古、中央アジア方面にいたトルコ族の楽器」の伝統を現在まで継承するのは、名称も形状も含め、キルギスの楽器コムズだけだといえる。

チベットの国民的楽器ダムニアンの画像

チベットの国民的楽器ダムニアン

 岸辺成雄さんが火不思と「そっくり」と触れたチベットの楽器「ダムニアン(ダムニェンとも)」について、王耀華氏は「一種の六弦楽器であるが、一コース二弦の複弦であったから実際には三弦にあたる…形態は火不思と似ていて、棹が真っ直ぐで注(フレット)は立っていない。棹と道の中間に角があり、銅に羊の皮、シカの一種の皮、または魚の皮が張ってある。…したがって、扎年(ダムニアン)と三弦または三弦類の楽器との関係は、火不思とほぼ同じである。扎年の歴史の起源からみると、相当に古い楽器でもある。…チベット自治区にあるすべての寺院(唐代に修築された古い寺を含む)の正門の前には、四代天王の祖像がある。そのうちの一つが手に持っているのは扎年である。…チベットの扎年は内陸の三弦の形成及び改良の手本となる役目を果たしたとみられる」(『中国の三弦とその音楽』)と記している。

● 中国の三弦には大、中、小の地域差

中国の三弦の画像

中国の三弦(地域的に大、中、小と差)

 こうして誕生した三弦は、王耀華氏によると「三弦の形態や三弦音楽の地域的な様式は、基本的に、北方における大三弦音楽、中原(中国の中央地域)における中三弦音楽、南方における小三弦音楽、西南部における少数民族の三弦音楽の四つに分類できる。(一)北方における大三弦音楽 これは、中国の北部地域で広く行われ、大三弦によって演奏される。主に三つに類別できる。(1)北方の説唱類(京韻大鼓・梅花大鼓・単弦牌子曲など)の三弦音楽、(2)満州族・漢族などの文人音楽の組曲(弦索十三套など)としての三弦音楽。(3)モンゴル族の三弦音楽の三種である。(二)中原における中三弦音楽 これは、中国の中央地域で行われ、中三弦によって演奏される。主に、陝西省の20130509-zh.gif音楽・秦腔・弦板腔の三弦音楽、河南省の大調曲子・三弦書の三弦音楽である。(三)南方における小三弦音楽 これは、中国の南部地区で行われ、小三弦によって演奏される。主に、崑曲、弾詞、福建南曲、潮州音楽、広東漢楽、広東音楽の中の三弦音楽、そして湖南省の説唱や戯曲の中の三弦音楽である。(四)西南部における少数民族の三弦音楽 中国西南部の少数民族においては、さまざまな形態の三弦が演奏されており、各民族の生活にしたがってそれぞれ特色ある三弦音楽が生みだされている。主なものには、イ族、ペー族、ラフ族、リス族、チンポー族、ジノー族、ハニ族、タイ族、ミャオ族などの三弦音楽がある」と整理し、各地域の三弦音楽を、記譜を含め、構造、形態等詳述している。
 以上中国の三弦の起源と普及、琉球へ渡った三弦について整理すると、北方の大都(北京)周辺では大三弦、陝西省など西方では中三弦、福建など南方では小三弦など、中国で普及していた三弦には地域的特徴があった。中国では、明、清の時代を経て今日に至るまで、中国の戯曲の歌舞に合わせた旋律を演奏する中心的楽器として演奏され、江南地方や福建地方ではサロン的室内楽に不可欠の楽器として人気を得てきた。琉球王府に伝わったのはこの福建省の小三弦であった。日本では従来、琉球から伝わった三線にニシキヘビが張られていたことから「三味線の起源は南方」との「常識」が通用しているが、三弦の起源は、北方のトルコ系民族の楽器「火不思(クーブース)」が、元代のモンゴル人の間に普及し、明清の時代に漢族の間に普及し、元代の末に三弦の有力な起源楽器として三弦誕生に影響を与え、元代の首都を中心に大、中、小と地域差を持ちながら普及した。つまり三弦は南方系ではなく、北方系の楽器として誕生した―ということになる。

琉球の三線の画像

首里城で完成した琉球の三線

>琵琶の撥で叩く三味線の画像

琵琶の撥で叩く三味線。左から細棹、中棹、太棹

 琉球では、1392年福建省から伝わった小三弦を、宮廷楽器として大事に扱うと共に、首里城内で琉球独自の音楽創造の工夫が行われ、国を治める重要な楽器として普及された。1562年堺に伝わったのは、首里城内で格式の音楽として完成した後であったという。  日本では、人形浄瑠璃や歌舞伎の下座音楽、新内の伴奏楽器となるなど、町人を含め大衆的楽器として浸透したが、琉球では、三線は当初士族階級の教養として普及し、経済的ゆとりの象徴として蛇皮張りの三線が二丁一対で床に飾られる飾り三線が、家伝の宝物として家や土地、お墓の最後に手放す財産といわれるほどだったという。江戸時代になると琉球でも庶民の間に普及し、舞踊を組み込んだ古典「組踊」が生まれ、七月のエイサー、若い男女の野外の踊、八月の村踊、結婚や盆、稲刈りなど、晴れの芸能に三線が使われるようになった。中でも王家尚氏の「ケージョー」と呼ばれる5つの楽器が名器中の名器として知られ、夕方ひき始めた三線は、首里城夜明けの開門を告げる鐘「ケージョー」が鳴るまで、美しい音を響かせたとまでいわれるほど、現在に至るまで三線は琉球社会の中で国民的楽器となった。  中国における地域的大、中、小の三弦文化の形成、琉球における首里城の歌三線から庶民の民謡三線、日本では、浄瑠璃三味線と歌舞伎の下座音楽、そして津軽三味線まで、ペルシャ起源の曲項四弦琵琶で使用した撥で叩く、アジアの歴史が詰まった三味線文化が花開いた。朝鮮半島を除く、アジアの近世は三弦の時代であった。

その11に続く

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