第一章―アジアの音楽史「江戸歌舞伎はチンギスハーンがいなかったら誕生しなかった!?という物語」 その12

大野遼のアジアの眼

NPOユーラシアンクラブ 会長 大野 遼

【モンゴルが中国を支配した表象として誕生した「三弦」】

―天山ウィグル王国が「■馬王家」「第5のハーン家」となり火不思はモンゴル帝国の表象楽器に― ―吐蕃(チベット)のパスパがフビライの国師・帝師となり大元の表象楽器「三弦」のヒントに―

※■…馬偏に付

 前号では、近年モンゴル系とも言われる鮮卑族の王統が続いた中国の北魏、隋、唐代の音楽文化に影響を与えた、ソグド人がもたらしたペルシャ系の琵琶に対して、イスラムが浸透した8世紀の中庸にイスラム帝国と唐のタラスの戦い(唐の敗北)を経て、中国の西域経営が後退、吐蕃やウィグルが勢力を伸ばし、唐との三つ巴の戦いの中で、三国国境の画定(822年)が行なわれ、チベットで8世紀の半ばに誕生したダムニェンがウィグルの火不思(クーブース)の誕生につながり、東アジアの三国(唐、チベット、ウィグル)の表象楽器が、曲項四弦琵琶、ダムニェン、火不思となったのではないか、という想像を書いた。もとよりこれは空想以外のものではないが、「インド系」「ペルシャ系」と仏教文化に伴う表象楽器が変わるのを見ていると、チベットがネパールーインド経由で本格的な仏教王国を形成するに際し、表象楽器ダムニェンを誕生させた可能性があると考えている。ダムニェンの起源となる楽器については、田森雅一さん(ジャーナリスト)が、アフガンラバップ、インドラバップ、パミールラバップなどを挙げているが、14,15世紀にイスラム化したウィグルの楽器の中にカシュガルラワップと呼ばれる楽器も含まれており、やはりペルシャ音楽の影響下に生まれたものである。楽器の胴部上端に張り出しのある特色は、「ラバップ」系統の楽器の形態的特色がダムニェンに近い。カニシカ王以来の仏教文化がインド・イラン系あるいはペルシャ系文化の強い影響下にあった事を考えれば、上記田森氏が渉猟した楽器の中にダムニェンのルーツが潜んでいることは十分に可能性のあることである。  中国史を眺めていると、騎馬遊牧民型文化が中国史を覆っていることが歴然としている。吐蕃(チベット)もウィグルも、そして北魏、隋、唐という中国の王統を形成した鮮卑もそうである。実は、インド・イラン系あるいはペルシャ系文化そのものも元は騎馬遊牧系の人々であった。これは稿を改める。秦漢以後、晋―東晋、北宋、明などが漢民族の王統とされるが、秦朝の王統もチベット系の遊牧民が出自として指摘され、それ以外は、北魏―隋―唐、遼、西夏、金、元、清と圧倒的に騎馬遊牧系の王統が占める。最後の明建国にあたっては、国号「明」に象徴されるように、「中華(夏)」の復興を掲げて建国したのではなく、マニ(明)教徒の乱(紅巾の乱)に便乗し権力を奪取し、建国後は同士を殺戮し、マニ教徒を弾圧している。中国においては、中原にあって王統を築くことが、漢字を使用することで成立するヒエラルヒーを構成することと同一となることから、「華夏」の紐帯として「漢字」の占める意義が絶大である。これによって中国の支配層は、「華夏」「中華」を標榜することで支配の錦の御旗となり、「朝貢貿易」も合わせ、「周辺諸国」さえ、中国文化圏に「帰属」させていることは間違いない。しかし、「漢字」や「朝貢貿易」といった「華夏・中華の絆」をはづしてみると、中国の諸王朝や文化、社会に占める諸民族(=夷狄)の影響は絶大なのであり、中国を華夏・中華で語ることはできないのである。「中華主義」は中国の支配者にとって有効に作用する支配の呪文=幻想のようなものである。「社会主義」「共産主義」を掲げて革命を起こした毛沢東が、支配を確立すると人民の上に「中華」を被せたところに、明の朱元璋が、ササン朝で形成されたマニ教(ゾロアスター教と仏教、キリスト教などの折衷信仰)信者の反乱紅巾の乱に便乗しながら、皇帝になるとマニ教を弾圧、大虐殺に走った経緯と似たものを感じている。不健康なナショナリズムだ。

● 隋・唐代(7〜8世紀)から中国を覆う吐蕃/ウィグル/鮮卑(モンゴル)の枠組み

 ―ウィグルに注目していたチンギスハーン、子どもたちにウィグル語、ウィグルの慣習を学ばせる―  三味線の系譜を訪ね、ペルシャ系の曲項四弦琵琶、琉球、中国の三弦の系譜を訪ねる最終稿は、8世紀末に中国を覆ったチベット、ウィグル、そしてモンゴル(唐の王統を形成した鮮卑については近年モンゴル系との指摘もある)の関係が、唐の滅亡(907)後、遼、西夏、金といった中国北方の遊牧帝国を抜けて300年後の時代を経て再び再現されることを記すことになる。  13世紀の初頭、モンゴル諸族を押さえ頭角を現したチンギスハーンの時代は、ユーラシアが史上初めてモンゴル帝国の支配下に入った。その東方を支配したのがフビライハーンの大元であった。この稿の第一章のタイトルは―アジアの音楽史「江戸歌舞伎はチンギスハーンがいなかったら誕生しなかった!?という物語」であった。 今回の稿で強調したいのは、モンゴル時代におけるウィグル系トルコ人の活躍とチベット(仏教)の広範な普及について注目する必要があるということである。

シカチアリャン村の地図

白石典之著「チンギス=カンの考古学」より

 その前に、私のこれまでのアジアを見る目は、アムール川から生まれたということを記す。私は20数年間、シベリアの少数民族に興味を持ち、特にこの20年ほどは、沿海地方、アムール流域、チュコト半島までの先住少数民族の交流拠点として、ハバロフスクから北東70キロの少数民族村シカチアリャンのアムールの岸辺にキャンプを取得し、流域の人々と交流してきた。そこから見るとアジアが別の形で見えるようになった。  結論から入る。モンゴル人・チンギスハーンは、アムール川の上流で誕生している。中華人民共和国内モンゴル自治区北部からモンゴル国東部にかけた、オノン川からアルグン川の流域であったようである。アムール川の最上流(オノン川、アルグン川・ヘルレン川の上流)には、チンギスハーンの墓があるとモンゴル人が信じるヘンテイ山がある。モンゴル人は部族ごとにグループを形成し、アルタイ山脈からバイカル湖周辺を淵源とするトルコ系民族や大興安嶺の東から北にかけて暮らしたツングース系民族と隣合って暮らしていた。モンゴルは「永遠の川」を意味し、アムール流域の漁撈民族がアムール川を「モンゴー」もしくは「モンガボ」を称していた、アムール川のことを指す。  チンギスハーンが誕生し、ハーンになるまでのモンゴルの事情は、北アジア考古学の先駆者加藤晋平元国学院大学教授とともに、モンゴル国でチンギスハーンの陵墓を探すゴルバンゴル計画のリーダーとして参加した白石典之新潟大教授が最も詳しい。それによると、アムール川の上流にいたモンゴル部族は、12世紀前半(1125)金帝国に契丹(遼)が滅ぼされ手薄になったモンゴル高原に進出し、ヘルレン川を南北に挟んでタタールと対峙していた。モンゴルは12世紀中ごろカブルハンによって諸部族が統一され、金帝国やタタールと衝突を繰り返していたが、この頃に、チンギスハーンは誕生した(1154,1155,1162説がある)。生誕の地は「デリウン・ボルタク(脾臓の丘)」。場所は定まっていないがオノン川流域と考えられている。チンギスハーンは、カブルハンを曾祖父とするキヤト部族の子として生まれたが、父エスゲイが、タタールに殺され、タイチウト部族に排斥され、母ホエルンとヘンテイ山に逃れて育った。12世紀末、ヘンテイ山やハンガイ山から注ぐ川沿いに有力なグループを形成していたモンゴル部族の中で、アムール川の最上流に位置するヘンテイ山に追いやられていたキヤト部族のチンギスハーンは、オルホン川とセレンゲ川の合流点近くを拠点にしていたメルキト部族との戦い、タタールとの戦いを通して頭角を現したチンギスハーンは、ケレイト、ナイマン、タイチウトとモンゴル高原周辺のモンゴル部族、トルコ系部族のナイマンを倒し、オノン川上流で「イフ・モンゴル・ウルス(大モンゴル国)」の皇帝の座に就いた。(「チンギス=カンの考古学」)  チンギスハーンがジュチ、チャガタイ、ウゲデイ(オゴダイ)、トォルイの4人の息子が有り、そしてグユク、モンケ、フビライ、フレグら孫の代へと続く、チンギス一族によるユーラシア支配については、集史(14世紀、ラシード=アッ=ディーン)、元朝秘史などを基に、チンギスハーン一族の征服と周辺書民族の帰順の歴史を描く歴史小説風に描かれたものが多い。この稿で記すのは、モンゴル帝国の支配層はチンギスハーン一族に系累を連なるとはいえ、その実態はトルコ系を中心とする世界を形成していった「ユーラシアのトルコ化」の謎に関わるものである。そのキーワードは、「■馬王家(ふまおうけ)」だと考えている。  天災とキルギスの攻撃を受け、840年ウィグル帝国が四散し、西方に移動したグループが天山山脈東方で天山ウィグル王国を形成することは、この稿の前号で記した。天山ウィグル王国はその後、ソグド語をもとにしたウィグル語を使用し、ソグド人に替わって中央アジアで交易に従事していた。チンギスハーンが1206年、オノン川上流でクリルタイを開き大モンゴル国の皇帝(ハーン)に就任する前後に、実はその後に、モンゴル高原から中央アジアに進出し、世界帝国を形成するうえで大変意義深い、チンギスハーンを驚喜させる出来事が起きていた。  チンギスハーンは、モンゴル諸族の他アルタイ山脈北西のナイマンを滅ぼした際にナイマン王に臣従していたウィグル人宰相タタ・トンガを受け容れ、息子たちにウィグル語とウィグル文字、ウィグルの法制・慣習を学ばせていた。クリルタイでチンギスハーンが皇帝に推挙される1206年に先立つ1204年のことであった。これはモンゴル帝国がのちにユーラシアの帝国になる上でチンギスハーン一族によるユーラシア支配にとって大変重要なできごとであった。チンギスハーンは、ウィグル人が、9世紀に西方に移動後、中央アジア以西の天山ウィグル王国やウィグル系のトルコ系イスラム国家カラハン朝が影響力を行使し、ペルシャ系ソグド人に替わってシルクロードの交易で活躍するようになっていたことを知っていたのではないか。     そしてチンギスハンが即位した3年後、西遼に臣従していた天山ウィグル王国のバルチュク・アルト・テギン王がチンギスハーンに臣従すると申し出た。するとチンギスハーンは、大変喜び、娘の一人アル・アルトゥンをバルチュクに降嫁させ、モンゴル帝国ではウイグル王家を「ウイグル■馬王家」として妻ボルテの所属部族コンギラト■馬家と並ぶ、■馬王家筆頭と賞し、モンゴル王族に準じる地位を与えている。四人の息子に継ぐ「第五のハーン家」としてモンゴル帝国の支配一族になったのである。東部天山山脈は「ウィグリスタン」と呼ばれた。  この結果ウィグル人は、モンゴル帝国および大元の経済官僚として取り立てられるとともに、ウィグル語から採用されたウィグル系モンゴル文字が作られた。こうしてウィグル人が親しむ楽器クーブースも、支配的一族の楽器としてモンゴル人の間に普及し、漢族の間にも広がった。幕末明治以降の日本における鹿鳴館的音楽風土、戦後のアメリカのミュージカルの普及にみられるように、「文化は優勢な勢力に帰属」しながら普及するものであることがここでも見られるということのようである。そして、「伝統文化」「外来文化」「文化変容」という文化を形成する発展の軸が現代に機能し始める。

● チンギスハーンは天山ウィグル王国を「■馬王家」に、フビライはチベットの高僧パスパを「国師」に登用

内モンゴルに残る火不思の画像

内モンゴルに残る火不思

チベットのダムニェンの画像

チベットのダムニェン

  ―吐蕃・ウィグル・唐の「三国会盟(国境画定)』(822)から400年後、再度中国支配の枠組みとして復活  1271年大元を創設したフビライは、チンギスハーンが登用したウィグル■馬王家に加えて、チベットの高僧パスパをチベット仏教だけでなくモンゴル帝国の仏教行政の「国師」(1260)「帝師」(1269)として登用した。南宋が滅亡(1279)する10年前のことであった。この結果、チベット仏教(ラマ教)が大元やモンゴル帝国内に浸透した。モンゴルは、ユーラシアのイスラム系諸族のほか、トルコ系、ペルシャ系、チベット、ネパール、インド等様々な民族に属する人々がモンゴルに帰順し、多彩なユーラシア帝国を形成した。アジアの音楽史上最後の楽器「三弦」はこうした状況の中の「文化変容」として誕生したと考えられる。モンゴル帝国から大元にかけて主流となった弦楽器はウィグルの楽器火不思(ダムニェンの影響で8盛期から世紀にかけて誕生したトルコ系の楽器;イスラム化する前の天山ウィグル王国の楽器)であったが、南宋を滅ぼし中国全域を支配する過程で、複弦六弦(事実上の三弦)楽器であったチベットのダムニェン(大、中、小の区別があった)を参考に、中国のモンゴル支配が完成したことを表象する楽器として誕生したのが「三弦」であった。大元における中国支配では人々を四つの階層に分ける考え方があり、大都を中心にモンゴル人、色目人、漢人、南人(南宋領の人々)に分けられ、漢人はウィグル人やチベット人など二十数種の色目人より下に見られていた。ウィグル人はその筆頭。モンゴル人と色目人は大都周辺、漢人は中原周辺、南人は旧南宋領に住む江南・福建省の人々を指し、中国支配を表象する「三弦」の大小によってその地域の楽器とされたと考えられる。新たな政治センター大都(北京)周辺が大三弦、漢民族の発祥の地ともいわれる中原が「中三弦」、江南・福建省以南が「小三弦」と、モンゴルによる中国支配の表象となる主流の楽器として普及したのである。モンゴル帝国の支配層の表象楽器火不思を基に、さらに火不思の起源とされるチベットのダムニェンも参考に、新しいモンゴル文化(大元)の表象として「三弦」は誕生したと考えられる。  アジアの音楽史的には、中国では隋唐代にペルシャ系の曲項四弦琵琶が主流楽器となり、8世紀から9世紀にかけてチベット(吐蕃)でダムニェン、9世紀半ばに天山ウィグル王国で火不思が誕生し、12世紀まで曲項四弦琵琶、ダムニェン、火不思(クーブース)が東アジアの地域の表象楽器となっていたが、チンギスハーンが誕生し、天山ウィグル王国のバルチュク王が「第5のハーン家」となることで火不思がモンゴル帝国と大元の表象楽器となり、大元が南宋を滅ぼし中国の支配を完了した段階で、大元の表象楽器として誕生したのが「三弦」であった。

チンギスハーンの画像

チンギスハーン

フビライの画像

フビライ

 「三弦」が誕生するためには、チンギスハーンがウィグル人を「■馬王家(ふまおうけ)」「第5のハーン家」とし、フビライがチベットの高僧パスパをモンゴル帝国や中国の仏教寺院の管理者として登用し、モンゴル語だけでなく中国語を表記する新モンゴル文字パスパ文字を作成するなど、モンゴル帝国による中国支配の新段階(1279南宋滅亡)に対応した文化的表象として「三弦」は出現したことになる。  チンギスハーンがモンゴル諸族を統合し、天山ウィグル王国のバルチュク王が臣従を申し出(1209)なければ、モンゴルの西方遠征(1218)によるモンゴルのユーラシア帝国の骨格は形成されたかどうか、大元でウィグルとチベットの支配層がモンゴル支配に協力しなければ「三弦」も誕生しなかったと想像される。私は、チンギスハーンが、ハーンになる前の1204年に、ナイマン族に臣従していたウィグル人の宰相からウィグル語やウィグルの慣習を息子たちに学ばせていたことから、モンゴル系とも言われる唐の王統鮮卑とウィグル人の連携、チベット(吐蕃)を含めた三者による(三国会盟:国境画定)の歴史やその後、ウィグルが中央アジアに於いてソグド人に替わり、東西交易の担い手になっていたことを熟知していたと確信する。だからこそ、積極的に天山ウィグル王家を「■馬王家」として扱い、モンゴル帝国の経済官僚として多数登用し、ウィグル語によるモンゴル語表記というモンゴル文字誕生につながったのである。逆に言えば、その後のアジアの音楽史で、琉球経由で福建省の「小三弦」が大阪・堺に伝わり、ペルシャ系の曲項四弦琵琶を弾いていた澤住検校の掌で四弦から三弦への交替が無ければ江戸歌舞伎も誕生していなかった、という意味で、「江戸歌舞伎はチンギスハーンがいなかったら成立しなかった」ということになるのである。ちなみに、ゴルバンゴル計画のリーダー白石典之新潟大教授によると「チンギスハンの墓は、アウラガ遺跡の近くにある(平地にある)可能性が高い」という。(第一章完/暫定)

大元中国支配の表象 弦楽器の画像

大元中国支配の表象 ・大三弦、中三弦、小三弦

ダムニェンの画像

ダムニェン

火不思から三味線までの画像

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