第二章―アジア源流「〝幻の河オクサスから世界は始まった〟という物語」 その9

大野遼のアジアの眼

NPOユーラシアンクラブ 会長 大野 遼

【農耕都市文明の形成で流動性が高まった鉱石ネットワーク】

―BMACは古代プラアムダリア沿いに北メソポタミア−アナトリアをつなぐ「錫の道」のセンターか?―

 神奈川県愛川町を流れる中津川の地下洞窟を歩いた弁才天(サラスヴァティ)の幻影を追い、地下水脈の源流を訪ねて辿り着いた中央アジアのホラーサーン北部は、砂漠に消えた最初のアムダリア(古代プラアムダリア;加藤九祚著「シルクロードの古代都市−アムダリヤ遺跡の旅」挿図)に、南方アフガニスタンのヘラート方面からムルグブ川やテジェン川が注ぐデルタ地帯であった。(以下「アムダリヤ」は「アムダリア」で統一)

● BMACはプロトゾロアスター教:「アーリア人の故地」か?

 そして今、ここで世界の考古学者、歴史学者、言語学者らを巻き込んで、紀元前二千年前に遡り、世界史の始まりに関わると注目されている遺跡の発掘が行なわれている。「バクトリア・マルギアナ考古学複合」(BMAC)と呼ばれている。インドでバラモン教(のちのヒンズー教)社会を構成したインド・アーリア人及び東イラン(今のアフガニスタン・トルクメニスタン、ウズベキスタン)でゾロアスター教を形成したイラン・アーリア人がまだ一緒に生活していた時代「インド・イラン共通時代」、「アーリア人の故地」に関わる遺跡群ではないかとして注目されている。発掘を指導している考古学者のV.サリアニディ氏は、ムルグブデルタで発見された150以上の古代集落跡のうちトゴロク21号と呼ぶ神殿要塞遺跡に特に注目し、底部に穴があり羊毛で詰められた大型の甑と見られた土器から採取された資料の成分分析でアルコール分を含む針葉樹エフェドラが検出されたことや石臼や搗き棒、護符に描かれたケシやエフェドラの画像、などから、インドのリグヴェーダや東イラン(アフガニスタン等)のアヴェスターで「ソーマ」や「ホーマ」と呼ばれた酩酊飲料であり、拝火に結びつくプロト・ゾロアスター教の神殿もあったことから、「ゾロアスターはこの地にあったプロト・ゾロアスター教を基にして新宗教をつくりあげた」と考えた。このほか、四輪馬車や人間7体、犬7匹、ラクダ2頭、ロバ2頭が埋葬されたゴヌール3900号墓と呼ばれる墓穴に、数字の7を聖数と考えるゾロアスター教の考えが表象されているとの指摘等もある。「(トゴロク21号)神殿が捨て去られたのは、突然の出来事であった」、「その理由は神殿内部の土器その他がほとんど完形のまま残されているからである。祭壇や拝火壇も封印されたように残されている」などと神殿の最後が説明されている。この「バクトリア・マルギアナ複合」については、加藤九祚著「シルクロードの古代都市―アムダリヤ遺跡の旅」(岩波新書)に詳しい。  サリアニディ氏は、アムダリア川を挟んで左岸のムルグブ川デルタのマルギアナ遺跡と、右岸の北バクトリアで発見された、拝火神殿のあるジャルクタン遺跡は類似しているとの考えから「バクトリア・マルギアナ複合」を提唱し、神殿内で発見された酩酊飲料製造や拝火施設、人間や犬等に示された「聖数7」がアヴェスタやリグヴェーダに記されたアーリア人の祭祀習慣を示すと受け止め、マルギアナ遺跡群のある地域を「ゾロアスターがゾロアスター教を形成した地」と判断している。

● ハリールード下流のテジェンデルタから古代パラアムダリア経由でカスピ海に流路?

 このショッキングな遺跡群の性格について「マルギアナは中央アジア地域における重要な交易の中心」と指摘するのはL.キルチョ氏。既に、紀元前4000年紀から3000年紀の初めにかけて、南トルクメニスタンからマルギアナを経由し、アムダリアを渡り、ゼラフシャン川上流の銅などの鉱物資源を入手する経路があり、紀元前3000年紀の初めにこのルートが、「気候の乾燥化」が原因で使用されなくなったと想像している。しかし「紀元前3000年紀の最終世紀には、南部と北部イラン(古代インド、メソポタミア、西アジアへの出口とともに)から南タジキスタンまでの整備された輸送路において、マルギアナは鍵の役割を果たし始めた。そこからアムダリアとゼラフシャンを経由して中央アジア北部の豊かな原料産地へのルートがはじまった。マルグシュの地はこの古代商路上の独占的位置にあり、前3000年−前2000年紀の境目にマルギアナ文明の隆盛の経済的基盤となった」「前2000年紀に、大陸横断の大シルクロードの中央アジア部分の基礎となった交易路が形成された」という。マルギアナの遺品に見られる北メソポタミア、インドのハラッパに由来する装飾品や「樹木と山」の文様など、マルギアナと広域な交流圏が想定され、特に鉱物資源の入手や加工、交易で独占的な要にあったと指摘されている。アムダリアの最上流、ヒンズークシュ東端のバダフシャン地方で採取される、古代では唯一の青い鉱石ラピスラズリが北メソポタミアやシュメール、エジプト、インドへと運ばれた、「ラピスラズリの道」(シルクロード以前の東西交易路の名称)の要でもあった。  マルグシュの遺跡群が位置するのは、「古代プラアムダリア」の痕跡が残るトルクメニスタン共和国の面積の85%を占めるカラクム砂漠。東はアムダリアを挟んでウズベキスタンと接し、古都ブハラの先、ゼラフシャン川の上流がタジキスタン、そしてアムダリヤの上流がタジキスタンとアフガニスタンの国境となり、西はカスピ海に接している。加藤九祚先生によると、1.コクチャ川とアムダリアの合流点からチトラル経由でパキスタンとインド(インダス文明のハラッパ遺跡がある)とつながり2.「水の神殿」とも呼ばれるタフティ・サンギン遺跡の附近でクンドゥス川上流に、タリバンに破壊されたバーミャン遺跡があって、ヒンズークシュを越えてカーブル経由でパキスタンとインドに、そして3.かつて南から北へアムダリアに注いでいたバルフ川(玄奘三蔵ルート)、ムルガブ川(マルグシュデルタを形成)、ハリールード川(テジェン川、テジェンデルタを形成)沿いにヒンズークシュを越えてカーブル経由でパキスタンとインドにつながっている。  一方西方では、古代のアムダリア沿いにカスピ海を渡れば北メソポタミアである。またヒンズークシュ西方を南下すればヘルマンド川を経てインド洋に至り、ペルシャ湾経由メソポタミア、そしてエジプトへのルートも開けている。  マルグシュ遺跡群のあるアムダリア川旧河床地域は、東西南北の交流の要となっていたが、昨年5月、加藤九祚訳で発刊された「考古学が語るシルクロード史 中央アジアの文明・国家・文化」(エドヴァルド・ルトヴェラゼ著)は、グレコバクトリアの時代に、特にアムダリアからマルグシュ、コペトダグ山脈の南アトレク川沿いにカスピ海に出る道やカラクム砂漠の北、旧ウズボイ川経由でカスピ海に出る道が、ヒンズークシュを越える上記加藤九祚先生が指摘する3つのルートとつながり、アジアの東西をつなぐ「大インドの道」であったと指摘している。  しかし私は、グレコバクトリアの時代より1000年以上遡るマルグシュ(マルギアナ)遺跡群の形成とインド・イラン共通時代においては、「古代パラアムダリア」という、コペトダグ山脈北側を、カラクム砂漠を東西に真っ直ぐカスピ海に注ぐ流路があった可能性を想像したい。 伊藤義教氏の言う、ゾロアスター教で最も神聖視された「アリヤナ・ワエージェフ」、「アヴェスターのコア」、ゾロアスターの言語が形成された地域は、アフガニスタンのハリールードがヘラートを過ぎて北に方角を変え、テジェン川と名を変えて、コペトダグ山脈東端を北進し、テジェンデルタを形成し、旧「古代パラアムダリア」に注ぐ地であった。BMACを形成したマルグブ川が旧アムダリア川に注ぐマルグブデルタの西方にあったデルタであった。

● シュメールを中心として形成された鉱石ネットワーク

 私が興味を持っているのは、テジェンデルタにいたゾロアスターは、いつ頃、何が見えて、「アフラマズダ」を中心とした善思善語善行による道徳的審判を軸とする宇宙(世界)を構想したのだろうか、ということである。  ゾロアスターが活動し、その聖典アヴェスターを語り、特にそのガーサーが形成された時期については、研究者によって、紀元前1200年前〜紀元前600年前まで600年もの幅のあることは前稿(20号)で紹介した。その間をとっても紀元前1000年〜紀元前800年となっている。ゾロアスターが活動した時代を語るのに600年もの幅のある時期を設定しなければならない大きな原因はこの地域が「無文字」社会であった事にある。  人類史の初期に出現した最も古い文字はシュメール人によるシュメール文字であり、楔形文字とも呼ばれる。その前史として紀元前3500年頃から紀元前2900年頃まで「絵文字」(メソポタミアでは古拙文字、東方エラムでは「原エラム文字」)が粘土板に書かれた時期がある。交易の記録の必要から始まった。のちにこのシュメール文字(楔形文字)を使用して、シュメール文明に隣接し初期シュメール王朝を滅ぼした(紀元前2334年)アッカド人の王朝、ティグリス川北東から現われたグティ人によって衰退し、再度復活したラガシュ市やウルク市を拠点に第三シュメール王朝が誕生したが、東方スサを拠点とするエラム人の侵入で2004年滅んだ。これらの歴史が実年代で語れるのは古代メソポタミア文明で興亡した王朝の記録が、出土した粘土板の楔形文字によって知られているからである(「シュメール−人類最古の文明」小林登志子著、中公新書)。この絵文字の出現する直前から、「銅器時代」(金石併用時代)が始まっており、銅や鉱石の需要が喚起され交易が始まっている。後藤健氏によると(「4大文明『インダス』」NHK出版 『インダスとメソポタミアの間』)、紀元前2600年頃、原エラム文明の首都スーサは、キシュ王エン・メバラゲスィの軍事攻撃で陥落し、エラムの人々は新首都をシャハダード(神話のアラッタに比定)に置いた。農耕都市文明であるシュメールは、イラン高原以東から、銅だけでなく金、銀、そしてアフガニスタン東部のバダフシャンから採掘されるラピスラズリを輸入していた。

トランス・エラム文明の交易ネットワーク

エラム人の交易ネットワークを通してであり、後藤氏はこれを「トランス・エラム文明」と紹介し、アラビア半島東端のマガン、ペルシャ湾のディルムン(バーレーン)を含めた東西の交易ネットワークの機能を果たしていたと指摘している。要するに、古代西方アジア(メソポタミア)では、「銅器時代」(金石併用時代)とともに形成された農耕都市文明の鉱石需要に応える交易ネットワークの中で絵文字(古拙文字)から楔形文字が誕生し、歴史時代が刻まれたのに対して、古代アジアの東部では絵文字(「原エラム文字」やインダス文字)が未解明のまま、考古学者による編年によって時代が語られているということになる。  テペ・ヤヒヤからシャハダードを経て、ヒンズークシュ西方を経由しバダフシャン(ラピスラズリ採掘地)まで結ぶルートを軸に、このルートでラピスラズリは、メソポタミアからエジプトまで運ばれていた。インダス文明やBMAC(バクトリア・マルギアナ考古学複合)形成の前史として、「銅器時代」(金石併用時代)に誕生したメソポタミア農耕都市文明やエジプトをつなぐ鉱石受容を満たす交易ネットワークが、中央アジアからヒンズークシュ西方に成立していたことになる。この地域は銅鉱石の採取地もあり、のちにアフラマズダが創った「一六国」の南半分、BMACの南に位置している。そして、インダス文明の都市文化は紀元前2600年から紀元前1900年(1800年説も)、BMACは若干遅れて紀元前2300年から起源前1800年の間に形成されたと考えられている。そして、楔形文字と農耕都市文明を形成したシュメール人も、交易ネットワークを形成した原エラム人も、インダス文明を誕生させた人々も、BMACを形成した人々も、言語系統も人種系統も不明のままであるが、鉱石の産地、加工地、流通のネットワークに関わる流動性の高い人々であった(「インダス文明の謎 古代文明神話を見直す」長田俊樹著、京都大学学術出版会)。  長田氏は、鉱石や製品等を流通しインダス文明の都市の周辺に都市の暮らしと経済を支えた砂漠の遊牧民や舟を利用する商人がいたことを指摘し、ナショナルジオグラフィック掲載記事を援用しながら、「(インダス文明には)よその土地からハラッパ―にやってきて、ハラッパ―の女性と結婚し、ハラッパ―で亡くなって、ハラッパ―の墓地に埋められた男性がかなり多くいた」多言語多文化社会であったと強調している。

● ラピスラズリと「錫」の道

 今、ヒンズークシュ北部、アムダリア川流域で二つの遺跡が注目されている。「シルクロードの古代都市」に紹介されているが、一つ目がアムダリア川の上流、コクチャ川とピャンジ川の合流する辺りで発見されたショルトウガイ遺跡と、二つ目がアムダリア川に注ぐクンドゥス川のバグラン付近で発見されたフロル遺跡である。ショルトウガイ遺跡は、ハラッパ―遺跡と関わり深いインダス文明の最北の都市遺跡。フロル遺跡は、大量の金、銀を出土したバクトリアの富裕層の墓で、器面図柄からシュメール人のウル第三王朝末期に関わる遺物とされ、また同じバクトリアでは流出文化遺産として、典型的なシュメール文明の風俗画が描かれた金器も発見されていたことが紹介されている。この遺跡の南東(東)150kg(200kg)にラピスラズリの産地バダフシャンのサル・イ・サング鉱山がある。アムダリア川流域が、メソポタミアやインダス文明をつなぐラピスラズリを初めとする鉱石交易の中心であることを示す遺跡なのである。 さてこの稿の目的、BMAC(バクトリア・マルギアナ考古学複合)の性格について整理する。 上記した通り、BMACは、インダス文明より300年ほど遅い紀元前2300年前から紀元前1800年に形成され、紀元前2000年前後に、アムダリア川上流のラピスラズリ、ゼラフシャン川上流の銅や金の入手、加工、交易で独占的地位を得て、最後は「突然の出来事」で放棄された。このBMACの形成は、インダス文明のハラッパ―遺跡と関わり深い、アムダリヤ上流のショルトウガイ遺跡とほぼ同じ時期である。鉱石需要のピークに、アムダリア川上流とゼラフシャン川上流のラピスラズリ、金、銅等の鉱石入手に格好の地に都市を形成し、ショルトウガイ集落経由あるいは直接ハラッパ―遺跡とつながり、ヒンズークシュ西方の「トランス・エラム文明」を経由し、シュメールやバビロン第一王朝、エジプトとつながり、「古代プラアムダリア」あるいは「古代アムダリア」あるいはコペトダグ山脈南のアトレク川経由でカスピ海を越えて北メソポタミア(アッカド・ウル第三王朝から古アッシリア)とつながる中央アジアにおける交易ネットワークの要地となっていたと考えられる。  この交易ネットワーク取扱い商品の中でも、アムダリアの上流、ヒンズークシュ北端バダフシャンのラピスラズリの他、特に指摘しておきたいことはBMACやカスピ海とインドをつなぐ交易ルートに占める「錫」の役割である。ウル第一王朝(紀元前2800年)ころに製造された青銅器の鋳造には、鉱石「錫」が欠かせないが、シュメールの地にはなく、アフガニスタンの山岳部(ヒンズークシュ等)から上記交易ネットワークでもたらされたとされる。BMACが栄えていた時期は「中期青銅器時代」にあって、ヒ素から錫を混入する青銅器鋳造に代っており、錫の入手が交易の重要な品目となっていたと想像される。

古アッシリア時代の交易システム

しかも紀元前2000年前後は、古アッシリアとアナトリアの交易が始まっており、その重要な交易品目に「錫」が必要とされていた(「古アッシリア時代の錫交易と土器の分布」小口裕通)。古プラアムダリアの時代に、ゼラフシャン川上流から銅を、アムダリア川の南方流域(ヒンズークシュ山麓やハリールード川中流域)から「錫」と、青銅器の原材料を入手し、カスピ海を越えて、ウルミア湖周辺を経て、古アッシリアからアナトリアへの「錫の道」「青銅器の道」が存在し、ラピスラズリと合わせた交易ルートの要として形成されたのがBMACであったと考える。私は、鉱石を高熱で融解し、新たな金属(青銅器)を創るという時代の中から、「拝火儀礼」は生まれたとみている。「火」を命の源として「小さな太陽」を実感することや、酩酊酒(ソーマ・ハオマ)の力を借りて「見えない世界を見る」という衝動が、交易ネットワークで財をなした人々の間で醸成されたことは容易に想像できる。日本でも、大日如来の化身不動明王に護摩を焚き、観音菩薩や弁才天を念じて密教修行する山岳修験者の間では、「金山彦神」も祀り、鉱物探索を行う人たちがいたことが重なるのである。  このBMACは、シュメールやエジプトなど初期農耕都市文明が、「トランス・エラム文明」の仲介で、アフガニスタンからラピスラズリや銅などの鉱石を入手する時代から、青銅器を製造する合金の材料として錫も入手する新しい時代に移行する過程で、シュメール初期王朝が倒れた後誕生したインダス文明(特にハラッパ―遺跡群)の人々がヒンズークシュを越えて進出しショルトウガイ遺跡を形成、北メソポタミアとの交易に関わる人々と接触し、アムダリア中流域のBMACを形成したと考えられるのである。そしてインダス文明の性格が、都市の周辺に鉱石の交易に従事する遊牧民を抱えた多言語多文化社会であったと指摘されているように、BMACでも北メソポタミアと交易に従事する遊牧民がいたと想像される。

古代アッシリアの錫の道

 青銅器文化の形成に合わせるように、シュメール第三王朝の滅亡(紀元前2004年)以前から西アジアの流動性が高まっていた。中央アジアに誕生した中期青銅器文化の流通拠点の繁栄に伴い、北方で大きな勢力となった文化があった。アンドロノヴォ文化である。今のところ、インド・イラン系アーリア人の起源と考えられているコーカソイド系民族グループであるが、彼らがカザフスタン平原から南下し、アムダリア流域でBMACを形成したのか、BMAC周辺にいたのか、BMACを破壊したのか、アーリア人が目にしたのは、BMACの内部からであったのか、外からであったのか、そしてゾロアスターが啓示を受けたのはどんな環境であったのか、次の稿で、その年代、BMACに対する研究者の意見、インド・アーリア人とイラン・アーリア人と先行文化の人々との関わり等について考え、地下水脈形成の謎につなげたい。

その10に続く

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