第二章―アジア源流「〝幻の河オクサスから世界は始まった〟という物語」 その8

大野遼のアジアの眼

NPOユーラシアンクラブ 会長 大野 遼

【地下に消えた川が示すゾロアスター教誕生の地勢】

―後発(イラン・アーリア)と先発(インド・アーリア)分離の時代にゾロアスター教形成か?―

 前稿では、ゾロアスター教のアナーヒター(ハラフワティ)と同一だとされる、バラモン教(ヒンズー教)のサラスヴァティについて、インドの東ではガンジス河とヤムナー河の合流点サンガムで合流する地下水脈として現在まで伝えられ、西ではインダス河と並行して流れ現在タール砂漠で枯渇し地中に消えている二つ目の地下水脈として「東西二流」が存在することを紹介した。そしてゾロアスター教の宇宙観では、善悪二神の戦いの初め(春分の日)に、ハラー山の北方の源泉から、東西二流の流れとなって流れ、ハルブルズで地中に下り、中央州で地表に出たと描かれているアナーヒターを彷彿させるとも指摘した。  ゾロアスターが紀元前1400〜1200年頃の人であるとの考えがある(メアリー・ボイス)ことも前稿で紹介したが、のちにユダヤ教、キリスト教、イスラム教という「世界宗教」形成にも影響を与えたと考えられているこのゾロアスター教誕生の地はどこなのか、インド・アーリア(本稿で使用するアーリヤも同じ)人とイラン・アーリア人との関係とはどう考えたらいいのか、そもそも「アーリア人の故地」とはどこなのか、そして「アジア源流」の根底となる「地下水脈」とは何なのか、についてこの稿と次の稿で記す。

● 対応するゾロアスター教の「一六国」とバラモン教の「一六国」−紀元前1000年〜600年の時期

 ゾロアスターを「(紀元)前千年頃に比定」するゲラルド・ニョリ(「ゾロアスター教論稿」第二部前田耕作編・監訳)は、「悪魔(ダエーワ)に対抗する法」という意味を持つ(岡田明憲)「ウィーデーウ・ダート」(ササン朝時代にまとめられたゾロアスター教の聖典アヴェスターの二十一巻の第十九巻)に記された「アフラ・マズダーの創造した一六国」について、「この国名一覧は仏教資料、ジャイナ教資料、そして前6世紀のインドの叙事詩に拠るアーリヤ的要素に染まった一六<大国>と同じ意味を持っている」、「これらの一六国がイラン世界東端の地域であることから、この地名はアケメネス朝以前のものとしか考えられない。他方、この関係地域のとてつもない広がりは、それがゾロアスターの起源よりずっと後の時代の状況であることを示している」、「ペルシャ帝国の建国よりかなり前であったゾロアスターによる布教よりも、さらに一世紀ないし数世紀下る時代の状況を反映している」などと指摘した上で、「アフラマズダ−の創造した」ゾロアスター教誕生の地勢を紹介している。

地図その1

 それによれば一六国のうち八国については北から「ガワ」(ソグディアナ)、「モーウル」(マルギアナ)、「バークディ」(バクトリア)、「ニサーヤ」(マルギアナとバクトリアの間)、「ハローイワ」(ヘラート)、「ハラフワイティ」(アラコシア)、「ハエートマント」(ヘルマント)、「ハプタ・フンドゥ」(ヴェーダのサプタ・シンダヴァフ)と比定。また学界で地名比定に議論のある五国について「ワエー・クルタ」(ガンダーラのヤクシャ;シルヴァン・レヴィの比定に同調)、「ウルワー」(カーブルの南ガズニ地方;クリステンセンの比定を援用)、「ラガ」(アラコシアとドランギアナの北方)、「チャクラ」(ガズニとカーブルの間のローガル渓谷)、「ワルナ」(孔雀王呪教のヴァルヌ、アレクサンドロスを手こずらせた砦アオルノスのあったブネール;ヘニングの比定に同調)、「クヌンタ」(ヒンドゥークシに迫った地域もしくはカスピ海の南東ヒュルカニア)、「ランハー」(ヴェーダのラサー川)の地名を比定し、最後にアフラマズダ−が創造した一六国の周辺に「非アーリヤ(アーリアと同じ)人」「文化的・宗教的慣習の異なった土着の民」との接点が考えられている。  以上の地域は、ヒンズークシュ(パロパミソス)山脈を超えて、インドと接し、今の中央アジアのウズベキスタンからアフガニスタンの南部、カスピ海の南東トルクメニスタンを含む広大な地域であり、かつ、ゾロアスター教の「(アフラマズダが創造した東イラン;上記広大な)一六国」とインドの仏教誕生の背景となったバラモン教の「一六国」が対応していることは大変興味深い。バラモン教の「一六国」は、ヒンズークシュの南西パンジャフ地方(インダス河沿いのサラスヴァティが位置する場所)から紀元前1000年頃、ガンジス川中上流に移動したインド・アーリア人の動向を反映し、先住民族と混交しながら形成されたと考えられている。

● ゾロアスター教の形成は、イラン・インド(アーリア人)の分離を反映

 現在アフガニスタンのヒンズークシュ南西に位置するヘルマンド地方を含む「一六国」を形成した(アフラマズダが創造した;ゾロアスター教が誕生した)アーリヤ(アーリアと同じ)人についてニョリ氏は興味深い想定を提示している。少し長いが紹介する。「(東イラン:アフガニスタンの)新来のイラン人は、中部東域と南東域を旧住民(後述のインド系アーリヤ人)から軍事的・政治的に引き継いだ。旧住民は、これより数世紀前にイラン高原にやって来て各地に身を落ち着けていた部族で、同じインド=ヨーロッパ部族に属す者たちであった。T.バロウのように、彼らを「原インド=アーリヤ族」と呼ぶこともできよう。彼らがミタンニの王国内に居住していたことからもわかるように、西部では特に、彼らが自然のなせる境界を越えて定住していたことがわかる。これらの原インド=アーリヤ人に対してイラン人の及ぼした衝撃とともに、非アーリヤ的な異質な要素−前三千年紀に入ってすぐの頃、エラムからシースターンにかけて国や町を組織形成し、発展させた文明(インダス文明;大野遼注)を考えてほしい−にも及ぼした衝撃をも考慮にいれねばならない。・・・ゾロアスター教は、それよりも数百年から数千年古い文化と宗教をもった土地に生まれたのであるが、いうなればその土地は、定住と非定住、都市的と非都市的などといった少なからず複合的な社会の特徴を備えた、おそらくこれまでとは根本的に異なった宗教的感情を形成することによって開拓された土地であった・・・牛の役割はインド・イラン地方の前アーリヤ文明(インダス文明;大野遼注)においては宗教的価値をももっていた・・・『畜牛圏』と向かい合った、好戦的なアーリヤ人侵略者たちの素朴な『畜牛欲』に・・・原インド=イラン人の新しい考え方に・・・再構成された『畜牛圏』にも影響を及ぼしえたであろうか」「・・・ゾロアスター教の興った時代は、イラン民族がこの地域に定着したおそらく前一千年紀初頭前後から・・・彼らが到来する以前の同地域には原インド=アーリヤ人の集団(ヒンズークシュを越えてパンジャブそしてガンジス川中上流地域;一六国形成地に移動した;大野遼)が定住しており、・・・前二千年紀に入ると、インダス文明やメソポタミアとある程度の関係をもった都市文明が発達した(ミタンニ文書;大野遼)。・・・ゾロアスターの属した世界の政治・社会状況は、イラン貴族階級の主権の下、戦いの重要性が著しく浸透した様相を見せている。社会は、アーリヤ族の三階層、すなわち聖職者、戦士、牧・畜産者に分有され、<男性結社>が支配し、宗教的には血腥い犠牲の宗教によって特徴づけられる。政治的視点で言うなら、オアシスを中心に割拠し、経済基盤は主に畜産であって、規模はそれより小さいものの、農業も営まれていた」−。  以上の想定にはいくつもの重要な考えが含まれている。(1)ゾロアスター教の誕生した東イラン:アフガニスタンを中心にウズベキスタン、トルクメニスタンというヒンズークシュ山脈西方には、前二千年紀に原インド=アーリヤ系集団がいた(2)前一千年紀前後(メアリー・ボイスの考えでは前1400〜1200)、新来のイラン=アーリヤ人がやってきた−という、つまり中央アジアからイランそしてインドに進出したアーリヤ人に先発と後発の二派のアーリヤ人があったという指摘。(3)先発のアーリヤ人は、インダス文明、メソポタミアと関係を有していた。(4)後発のアーリヤ人は、先発のアーリヤ人から軍事的に優位にあって、男性結社が支配する聖職者、戦士、牧・畜産者で構成される「血腥い犠牲の宗教」が伴う社会であった。(5)先発・後発のインド・イラン系アーリヤ人は、牛の役割が宗教的価値を持っていたインダス文明(ニョリの言う『畜牛圏』)から、影響を受けている可能性がある−という示唆であった。

● ゾロアスター教が誕生したのは、「ホーラーサーン」地域

 (2)と(4)については、ゾロアスターの独白(ガーサー語)を考証した伊藤義教氏は「東方言の一つ、それもしぼれば西アフガニスタン、東イラン、トルクメン共和国の接壌地域一帯がアヴェスター語のコアー『核』であった・・・(コアーとは)ゾロアストラの活動地域と結びつけ、またその地を、彼が述作に使用した用語を理解しえた地域の一つと見做そう・・・その用語というのはガーサー語またはガーサー・アヴェスター語と呼ばれる」とガーサー語から、ゾロアスター教誕生の地を比定している。この地域が、ニョリ氏が「ウィーデーウ・ダート」の第一章から比定した「一六国」の中心地域であり、後で記す世界の研究者が注目している場所となる。後発のイラン・アーリア(アーリヤと同じ)人が、先発のインド・アーリア人そして先住の非アーリア人と接触融合し、戦士が敵対して「善悪の分離」が生じた場所と考えられる。ゾロアスターが宇宙の創造主で「善」を表象するアフラマズダ(イラン・アーリア)が、「悪」の表象アンラ・マンユ(デーヴァやインドラ)と敵対する物語は、ゾロアスター教誕生の時代に遡り、イラン系アーリアとインド系アーリアの戦い(後発アーリアと先発アーリアの勢力争い)の結果形成されたと考えられる。「一六国」の形成が「ゾロアスターの起源よりずっと後の時代の状況」(ニョリ氏)であり、伊藤義教氏の、ゾロアスターの独白(ガーサー語)による比定が正しいとすれば、ゾロアスター教が誕生したのは、後発のアーリア人がまだ十分にはアフガニスタンを南下していない時代、「西アフガニスタン、東イラン、トルクメン共和国の接壌地域一帯」いわゆるホーラサーン(東イランからヒンズークシュにかけた「陽が昇る土地」)地域であった。ゾロアスター教が誕生した土地は絞られたものの、ゾロアスター教形成の時期については「紀元前1400〜1200」(メアリー・ボイス)「紀元前1000年頃」(ゲラルド・ニョリ)「紀元前600年頃」(伊藤義教)と分れている。しかし先発のインド・アーリヤ人がパンジャブ地方からガンジス川中上流地域へ移動し「一六国」を形成し、後発のイラン・アーリヤ人が「悪魔(ダエーワ)に対抗する法」=「ウィーデーウ・ダート」第一章でアフラマズダの創った「一六国」を形成したのも同時期であったと仮定し、紀元前1000年から600年頃の間であったとすれば、間をとった形になるが、ゾロアスター教の誕生したのは紀元前1000年頃が妥当だろうか。「アーリア人の故地」は、アフガニスタンのヘラートを中心とするホラサーン以北であったに違いない。  先発・後発のインド・イラン系アーリア人が先住民を馬車で襲ったインダス文明においては、コブウシや水牛を表わした印章や牛の土偶で知られ、牛が富の象徴であったが、アヴェスタにもリグヴェーダにも、随所に投影された(5)の『畜牛圏』の痕跡は濃厚で、二輪馬車や騎馬の先住民が『畜牛圏』の住民を支配し、混交した結果、宗教的混淆も引き起こし形成されたのがアヴェスタやリグヴェーダであったことを伺わせる。そしてこの「畜牛圏」であるインダス文明は、実は大河インダス川の側に形成されたものの、例えばモヘンジョダロ付近では年間降水量が約100ミリ以下という乾燥地帯の都市遺跡であり、地下水路の発達した農耕社会であったことが知られている。私は、「牛」と同様、ここにも、アヴェスターの「アナーヒター」やリグヴェーダの「サラスヴァティ」など地下水脈が想定される宇宙観(世界観)形成の背景、つまり新しい宗教の形成の背景に、先住のインダス文明の社会を担った農耕都市文明の住民(ドラヴィダ人)とアーリア人(先発と後発がある)との接触融合の時代が潜んでいると考えられる。  この稿で記した「一六国」は、「悪魔(ダエーワ)に対抗する法」=「ウィーデーウ・ダート」第一章でアフラマズダの創った「一六国」が形成されたという、「ダエーワ=デーヴァ神族」と「アフラ=アスラ神族)である先発・後発のアーリア人が、ヒンズークシュをはさんで対峙した結果であり、前稿で記した「東西二流」の宇宙観も、先発・後発アーリア人対峙の時代には「サラスヴァティ=ハラフヴァティ(のちのアナーヒター)」となったものの、「地下に消えた川」への信仰は、先住民族(ドラヴィダ人と想定)のインダス文明が特色とした地下水路網に影響を受け、かつインド・イラン共通時代に遡るものではないかと想像するのである。アーリア人が、イラン(東イラン;アフガニスタンを中心としパキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン)やインドで「一六国」を形成する以前、インド・アーリア人がまだそこに留まり、イラン・アーリア人も未分化(あるいはまだそこにおらず))分離しておらず、先発も後発もなかった時代のことである。

● 「地下に消えた川」が示す「インド・イラン共通時代」

 実は先発のインド・アーリア人が初めに拠ったパンジャブ地方からタール砂漠で枯渇し地中に消えたサラスヴァティのような「消えた川」の痕跡は、インド・イラン共通時代、「アーリア人の故地」と想像される、ホラサーンの北部にも存在していた。それが、メルブの北カラクム砂漠に消えたアムダリア(旧オクサス河)であった。  中央アジアで20年ほど、仏教遺跡の発掘調査に携わってきた加藤九祚・国立民族学博物館教授は最新の著書「シルクロードの古代都市−アムダリヤ遺跡の旅」(岩波新書;以下「遺跡の旅」)の「序章 中央アジアの浮気な大河アムダリヤ」で取り上げているアムダリヤ(ペルシャ語)がオクサス(古代ギリシャ語)である。パミール高原のパミール川(タジキスタン共和国とアフガニスタン・イスラム共和国の国境の川)とヒンズークシュ東端のワハン川(アフガニスタン・イスラム共和国)を源流とし、現在流入しているアラル海まで全長二五七四キロの中央アジア最大の大河である。同著によると、パミール川のさらに水源地となるゾルクル湖(標高四一二五メートル)が「アジアの四大河の水源と考えられている架空の中心湖に擬せられた」と、考古学者オーレル・スタイン「中央アジア踏査記」の一文が紹介されている。バラモン教(のちのヒンズー教)や仏教で聖地とされているヒマラヤのカイラス山近くの「無熱悩地」(マナサロワル湖?)にも相当し、ゾロアスター教のハラー山最頂部フカルヤ峰から「東西二流」が湧きだす「源泉」(19号)にも重なる。「遺跡の旅」では、ゾルクル湖のような氷河湖がいくつもあることが紹介されている。ヒマラヤ・パミール高原の源泉(山)と川、そして海に対する信仰の表象である。源流であるパミール川とワハン川の合流点からピャンジ川と名前を変え、タジキスタンのワヒシュ川との合流点からアムダリヤの名前となる。この合流点近くにあるタフティ・サンギンの「オクス神殿」遺跡が、アケメネス朝からクシャン朝にかけての水神(アムダリヤ)への祭祀建造物として詳しく紹介されている。

地図その2

地図その3

 私が興味あるのは、序章のタイトルに加藤先生が記した「浮気な大河アムダリヤ」である。アムダリヤは現在、加藤先生が発掘したテルメズの仏教遺跡カラテパの西方に、アレキサンダーがアムダリヤを渡河し、東征の拠点としたカンピルテパ遺跡があり、さらに「ケリフ」で北西に流路を変えて、ウズベキスタン共和国のカラカルパク自治共和国とカザフスタン共和国の国境の内陸湖「アラル海」に注ぐ(現在は近くの砂漠に消えている)。この一帯はホラズムと呼ばれた。しかし、太古の昔、この「ケリフ」から今のトルクメニスタン共和国のカラクム砂漠を真っ直ぐ西に向かいカスピ海に注ぐアムダリヤがあったのである。  私がこの消えた川に注目したのは、前田耕作、古曵正夫、加藤九祚の三氏が中心になって立ち上げたオクサス学会で、私が何かしゃべることになったのがきっかけであった。加藤九祚先生が、マルギアナ・バクトリア複合と呼ばれるトルクメニスタンの遺跡群について報告されるにあたって、「グーグル・アース」の画面でメルブの周辺を眺めているとうっすらと白いライン(旧河床を示す塩の映像)が、「ケリフ」からメルブ近くを通って、カラクム砂漠を斜めによぎり、「ダルブラ・ガスクレーター」の下から真っ直ぐ西に向かい、カスピ海のバクー対岸に向かっているのを見つけた。私は、これこそフカルヤ峰(パミール高原)からたぎり落ち、「中央七州」に注ぎ、さらにウォルカシャ海に流れるとされたアナーヒター(ハラフワティ)の痕跡ではないか、と直感した。「地下水脈」への憧憬が生まれた環境はカラクム砂漠にあったように感じた。  「遺跡の旅」では、大きく4回にわたって流路を変えた「浮気な大河」が詳細に記述されている。そして、「ダルブラ・ガスクレーター」沿いの流路よりもさらにカラクム砂漠南、アシュハバードの北を北西に流れる最初の流路(「古代プラアムダリヤ」(最初のアムダリヤの意味)と記される)沿いに、アフガニスタンのヘラート方面から北流するムルガブ川(メルブを潤す)、テジェン川等が合流しているのが分かる。この地域が、トルクメニスタンの考古学者V.サリアニディ氏による発掘で、今世界の考古学、歴史学、そして言語学者らの間で「アーリア人の故地」「インド・イラン共通時代」の遺跡群ではないかと話題になっている「バクトリア・マルギアナ複合」と呼ばれる一帯であり、伊藤義教氏が「アヴェスターのコア」、ゾロアスターが活動し、ゾロアスターの言語「ガーサー」が形成された、ホラーサーン北部地域であった。  本稿で取り上げた「ウィーデーウ・ダート」第一章でアフラマズダが創った「一六国」は、バラモン教のガンジス時代の「一六国」に対応するヒンズークシュを中心として北はソグディアナ、南はシースタン・アラコシアまでを包括する地域であったが、「アヴェスター」そして後世にまとめられた「デーンカルド」「ブンダヒシュン」に記される世界は、ハラー山に囲まれた大地の「七州」で中央州がクワニラフと呼ばれ(伊藤義教「ペルシャ文化渡来考」)、バラモン教の神話的世界「メール山」(仏教の須弥山)の「九山八海」の「四州」であった。この「七州」も「四州」も山(源泉)から流れ出る川によって潤われていた。山はヒマラヤであり、パミール高原であった。「一六国」は、インド・イランが完全に分離した時代、「七州」「四州」は「アーリアの故地」の記憶を示すと考えられる。バラモン教の宇宙観を形成したインド・アーリアとゾロアスター教の世界観を形成したイラン・アーリアが、同じ世界を共有していた「インド・イラン共通時代」というのはどんな時代であったのか。

その9に続く

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