第二章―アジア源流「〝幻の河オクサスから世界は始まった〟という物語」 その6

大野遼のアジアの眼

NPOユーラシアンクラブ 会長 大野 遼

【岩滝に収斂された弁才天はサラスヴァティ:日枝神社山王曼荼羅】

―「山」の弁才天、「海」の弁才天をつなぐ大日経の水神:二臂弁才天=琵琶を弾く妙音天―

 日本やアジアにおいてもっともポピュラーな大乗仏教の仏様である観音菩薩が、起源1世紀頃、突如としてガンダーラで誕生し、中央アジア・バクトリア以西とみられる「他方仏土」を出自とし、手に水瓶や蓮華を手にするのちの形状から、その起源はゾロアスター教の水神アナーヒターと考える説のあること、及び観音菩薩の形成に、クシャン朝を誕生させ、シルクロードのビジネスマンとして活躍したソグド人が深く関わる可能性のあることを前稿で紹介した。  そして日本には、上記ゾロアスター教のアナーヒターを起源とする、もしくはアナーヒターと同一の水神と考えられているもう一体の女神がいる。大乗仏教で観音菩薩と同様ポピュラーな女神・弁才天である。  インドのバラモン教の聖典に使用され、仏典などでも使用されたサンスクリット語(インド・イラン語:アーリア語;梵語)でサラスヴァティと記される。バラモン教の創造神ブラフマー(梵天)の娘であり妻とされる水や川の神でもある。この稿では、日本で姿を現した弁才天の2つの系譜を取上げる。

● 戦闘的護法神=八臂弁才天(国分寺七重塔に収められた金光明最勝王経の弁才天)

 1つ目の弁才天は、則天武后の時代に唐の義浄が漢訳した金光明最勝王経大弁財天女品第十五で、八臂の手に武器を持った英雄的闘争的な護法神として描かれている。悟りを得た釈迦牟尼は、バラモン教の創造神ブラフマー(梵天)の勧めで仏教の説法を始めたとされ、この梵天の娘(妻)サラスヴァティ(弁才天)が八臂弁才天の姿をとるのは、インドでグプタ朝以降、「マハーバーラタ」が体裁を整えた時代以降挿入された、ヒンズー教の大母神統合の中心的女神ドゥルガー女神の戦闘的性格が付与されているからだとの指摘がある(「『金光明経』における『弁才天』の性格」長野禎子)。  日本でこの八臂弁才天は、金光明最勝王経が741年聖武天皇の詔で全国の国分寺(金光明四天王護国寺)の七重塔に収められて普及する。道鏡を寵愛した称徳天皇(孝謙天皇重祚)の時、神仏混交が進み、空海が大日如来(毘盧遮那仏)を根本にした真言密教を請来すると法華経を中心とする天台宗の最澄と齟齬が生じ、天台宗では空海への遅れを挽回するかのように、弟子の円仁、円珍が天台宗の密教化を進め、法華経を重視していた天台宗でも、円仁が最後の遣唐使船で渡唐し、「蘇悉地経」をもたらし天台宗の密教化を促進し、特に円珍が密教経典を招来した。こうして天台密教は盛んになり(天台宗の密教ということから、空海の東寺を拠点とした真言密教=「東密」に対して「台密」)、円仁の山門派(比叡山に依拠)に対して、空海の繋累につらなる円珍は寺門派(三井寺に依拠)を形成し、座主や戒壇院設立をめぐって11世紀半ばまで争っている。しかしこの間にも神仏習合の修験道は普及した。  この中で修験道とともに広まったのが宇賀神(うがじん)、宇賀弁才天だった。とぐろを巻いた蛇の頭部が老人の男性か、女性という形状を持つのが宇賀神。上記金光明最勝王経の八臂弁才天の頭頂にこれを載せ、鳥居が覆うのが宇賀弁才天で、宇賀神はもともと空海が構想したともいう。宇賀弁才天の拠点の一つが竹生島。724年聖武天皇の勅で行基が派遣され、宝厳寺に弁才天、そして観音菩薩が祀られたという。竹生島は平安時代前期に東大寺傘下にあり、華厳宗であったが、空海も訪れ真言宗の寺院となった。のちに延暦寺(天台宗)傘下に移り、天台宗は基本的に法華経重視の宗派であったことから、古くは竹生島は観音菩薩のいる補陀落山に擬せられていたが、「『金光明最勝王経で』高い山の頂上や、山の深く険しい場所、洞窟、川辺、森林などが弁才天の『住処』として挙げられている」(中世弁才天曼荼羅にみる神仏の化現/中島彩花)ことから、延暦寺にも近く、琵琶湖に浮かぶ竹生島が、弁才天の「住処」となった。竹生島は平安時代後期から観音菩薩と弁才天信仰の島となった。宇賀神信仰は、竹生島から江の島、厳島に展開し、明治の神仏分離では記紀の神話に登場する水神・宗像三神の市寸島比売命(いちきしまのひめみこ)として祠が設置される。中世以降(鎌倉時代末以降)の宇賀神、宇賀弁才天については「宇賀神―異貌の弁才天女」(『異神中世日本の秘教的世界』山本ひろ子)に詳しい。

弁財天の画像

 上記の次第については、「新編相模国風土記稿」に記された歴史にその一端が投影されている。それによれば「江島弁天社は金亀山与願寺と号し日本三弁天の一なり(所謂厳島竹生島江島なり)、・・・島中に勧請ありしは寿永元年なり(本宮の條に詳載す)」と記し、本宮の項では「島口より十四町許りあり金窟龍穴蓬莱洞など称し天女初めて垂迹の神窟なり因りて本宮とす・・・神体は弘法の作像なり」。また歴史については「文武帝の四年四月役の小角窟中に入て天女を拝し・・弘仁五年二月空海参籠し神像を造りて社壇に安置し、其下に宝珠を埋む、故に海を本宮の中興と称す・・仁寿三年三月慈覚(天台宗三世の円仁)天女の生身を拝し、神像を自刻し五鈷金剛杵を造り、中に宝剣を籠て窟中に納む・・元慶元年慈覚の旧蹤を尋て安然参籠する年あり・・寿永元年四月頼朝の本願として文覚此処に弁財天を勧請し、五日供養を行ふ」などと記される。  文覚は、頼朝に挙兵を働きかけた怪僧として知られ、この歴史の最後に記される源頼朝による寿永元年(1182)の「弁財天勧請」は、吾妻鏡によれば「大弁才天を此の島に勧請し奉る」とあるだけで、弁才天がどこから勧請されたのか、また八臂弁才天(宇賀弁才天)なのか二臂の琵琶弁才天なのかははっきりしない。しかし奥州の藤原秀衡征討祈願のためであり、勧請されたのは八臂弁才天(宇賀弁才天)であったとみられ、現在江の島神社の弁天堂に祀られている宇賀弁才天に「永正十年(1513)彩色」という墨書があり、藤沢市の調査で「宋風彫刻の影響がみられる衣服から鎌倉時代」と鑑定された像があり(江の島神社教示)、これが文覚が勧請した「大弁才天」の一つ、また勧請先は、江の島と同じ「海(湖)の島」であり、当時、宇賀弁才天、琵琶弾奏二臂弁才天で知られていた竹生島と想像される。  上記のように、新編相模国風土記に記されたそれ以前の「行基」「空海」「慈覚」の記録は、竹生島が東大寺系から延暦寺系の活動領域に転換していること、神奈川県の大山の初代住職が東大寺の初代別当良弁(華厳宗の創始)、三代目が空海(真言宗の創始)、そして878年の地震で倒壊・焼失した大山寺を884年再興したのが天台宗の円仁の弟子安然(天台宗の創始者最澄の同族)であったことなど、大山が華厳宗、真言宗、天台宗の修験道場であったこと、また東丹沢八菅修験の中心である現「八菅神社」に役行者、行基、の名が登場し、空海が華厳経を納めたという伝承を持つ経ヶ岳を「奥の院」として遥拝した遺跡を持つ「八菅神社」(近世以前八菅山光勝寺)−などを重ねて想起すると、大山―八菅神社―江ノ島において、8世紀に相模国/海老名の国分寺の七重塔に金光明最勝王経が収められ、僧尼の修行の場として大山−八菅−江の島の修験が始まった時点では八臂弁才天が僧尼の念頭にあり、のちに空海以来の東密や台密の隆盛で宇賀神や宇賀神を八臂弁才天の頭頂に載せた宇賀弁才天が9世紀以降神仏習合の象徴として竹生島から全国に展開する、大きく二段階で進行した時代の転換が頼朝以前から始まっていたことがわかる。  以上、私が住む愛川町の中津川流域に残る弁天社の主神を、宇賀神(もしくは宇賀弁才天)から明治以降の神仏分離で市寸島比売命と呼ぶようになった、弁才天の一つ目の系譜「金光明最勝王経にある八臂弁才天」の系譜、由来を記した。

● 補陀落山の観音菩薩が海の弁才天と重なる竹生島の歴史

二臂弁才天の画像

 次に弁財天の二つ目の系譜、空海が渡唐し青竜寺の恵果から継承した真言密教の根本経典大日経(大毘盧遮那成仏神変加持経)及び大日経疏、大日経義釈で記され、胎蔵界曼荼羅外金剛る、琵琶を奏でる「妙音天」「美音天」=二臂弁才天について記す。私が興味あるのは、江の島の洞窟に住し、妙音弁才天と称される琵琶を弾く二臂弁才天が、私が住む神奈川県愛川町の中津川の地下洞窟を歩いて上流の塩川滝の上にある江の島の淵まで訪ねたという、水神が水源を訪ねる物語がどのようにして生まれたかにある。

二臂弁才天の画像

 この二臂弁才天(妙音天)を重視したのも空海に始まる。空海は、上記のように大日経の「妙音天」「美音天」として弁才天を受け入れていたが、東大寺の別当(最高ポスト)であった頃、高野山造営に先立って3年間、山上ケ岳を拠点に大峰山で千日間修行をしていた際(813)、天川弁才天を「琵琶山妙音院」と号し、一大聖地にしたと伝えられる。空海は、奈良・興福寺南円堂の建立でも天川弁才天に参籠し、興福寺に宇賀弁才天を勧請し、金剛峰寺を造営するに際し、山間を流れる御殿川の水源に相当する場所に、嶽弁才天社を初め7つの弁天社を祀ったとも伝えられている(紀伊続風土記)が、この弁才天も、宇賀神や宇賀弁才天と呼ばれる人頭蛇神の水神や金光明最勝王経の八臂弁才天であった。空海は、金光明最勝王経に沿った宇賀弁才天を勧請する一方で、大日経に沿って「妙音天=弁才天」も祀ったことになる。  空海が、高野山開山の勅許を嵯峨天皇からもらうのは、天川弁才天を「琵琶山妙音院」と称した二年後であった。この空海の強力な後ろ盾・嵯峨天皇は、空海、橘逸勢と並び書家三筆の一人として知られるが、琵琶を演奏することでも知られ皇子の仁明天皇は、琵琶の祖として知られる藤原貞敏を琵琶を習うため唐に派遣している。唐代中国では、琵琶は皇帝の楽器として知られていた(連載「アジアの眼」7号参照)。妙音天と呼ばれる二臂琵琶弁才天、唐で皇帝の楽器として知られる琵琶=弁才天が祀られるようになるのはこの頃であった。大日経で琵琶を弾く妙音天は、唐代の皇帝の楽器、空海と嵯峨天皇・仁明天皇・藤原貞敏を繋ぐ楽器琵琶を通して、大日経の護国神としての弁才天と重ね合わされている。平安時代末、平清盛によって尾張に左遷された太政大臣藤原師長は、琵琶を初めとする音楽に秀で妙音院と号し、妙音弁才天を祀り、のちの天皇(特に後鳥羽天皇/1183‐1198)による琵琶弁才天勧請の儀式につながっていく。「琵琶の灌頂(秘曲伝授の意味)」という概念は、師長の弟子である藤原孝道が『琵琶灌頂次第』を著した後鳥羽朝において宮廷音楽の世界にも密教思想の影響を受けて登場したとされる。後鳥羽天皇(のち天皇三代の上皇23年)は、安徳天皇のあと「(三種の神器のうち=海底に沈んだ)剣無き天皇」と呼ばれ、琵琶を秘器として表象し、秘曲伝授で天皇の権威高揚に利用したり、平家物語を天台宗の盲僧に弾き語りさせ当道座形成を促した天皇であった。のちに後醍醐天皇は琵琶の秘曲伝授で、天皇の権威を高め、音楽を政治的に利用したという指摘もある。(豊永聡美氏「後鳥羽院と音楽」)  一方、空海以来、そして後には天台密教においても、天皇における護国神=弁才天=琵琶への志向や、密教的世界観の浸透に合わせて、琵琶=弁才天が習合する形で琵琶=二臂弁才天が普及しており、源頼朝が文覚に江ノ島に勧請させた弁才天にも、下に紹介するように「岩滝」に勧請された竹生島の二臂弁才天=琵琶弁才天が含まれていたと考えられる。空海以来、大日経系二臂弁才天=妙音天の普及は、天台宗の密教化もあるが、中国における「皇帝の楽器=琵琶」を藤原貞敏が請来した琵琶の名器の継承そして藤原師長以降、秘曲伝授=妙音天=弁才天信仰が、天皇や皇族の間で普及していることと深く関わっているからだ(「中世における妙音天」土屋紀慶、「『増鏡』の音楽」猪瀬千尋)。  のちの資料だが「凡水海形琵琶相貌也 所以竹生島覆手也 十羅刹島此撥也・・此等皆辯才天三昧耶形妙音天全體也 故琵琶有三曲 之即辯才天三昧本尊一身習也(「渓嵐拾葉集」巻第六『山王御事』)で、「琵琶湖」という呼称のない時代に、「湖海=琵琶湖を琵琶に、その周辺や内部の地形を琵琶の部品に見立て」(弁才天信仰と図像の中世的展開/中島彩花)、琵琶が竹生島弁才天の表象とされている。中島氏は(竹生島弁才天のイメージは)「海中の山=島というシンボリックな地形を通して観想中の宝山と現実世界における竹生島とがリンクし、その頂きには琵琶を持した弁才天が鎮座しているが、その琵琶は、弁才天そのものであると同時に、弁才天が座すべき海=琵琶湖ともみなされる」と記し、「琵琶=弁才天」が日本の国土(仏教的法界)の中心としての比叡山(須弥山)と湖海のシンボル(水神:執筆者)として考えられていると指摘している。天台密教における琵琶=弁才天であった。皇室や天皇における秘曲伝授の動向を宗教界側が、宗教的世界観でフォローしていく構図として受け止められる。  この「須弥山」と「海」というのは、大乗仏教の法界で元々バラモン教(ヒンズー教)の宇宙観。大宇宙に聳えるスメール山の周囲に広がる八つの海と山、四つの島(九山八海)を示している。インドでは、ヒマラヤ(須弥山)とインド大陸(贍部洲;人の住むところ)で須弥山からは大河が流出し海に注ぐ。これが弁才天=サラスヴァティである。東大寺大仏の連弁にも須弥山図が描かれているほか、既に触れたように竹生島宝厳寺の伝承では、聖武天皇は724年、「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となる」と行基を派遣し、弁才天と千手観音を祀ったという。


● 山の弁才天と海の弁才天=岩滝はアジア起源の水神の本質

 空海が開山した高野山は、地上の須弥山を中心とした法界(宇宙)を構想し、東流する御殿川の水源七箇所に弁才天を祀ったと伝えられ、後に密教化した天台宗でも比叡山を須弥山に模して、須弥山を囲む海(琵琶湖)の竹生島に海(琵琶湖)の水神が依ると構想して弁才天が祀られた。空海は唐の長安に滞在中、恵果から大日経を根本経典とした真言密教を伝授される直前(805)、牟尼室利三蔵からバラモン教を学んでいる。宇宙の創造者ブラフマー(梵天)の娘(妻)サラスヴァティ(弁才天)については、通暁していた。  大日経の妙音天(弁才天)が空海によって天川に仮託されたのは、弁才天=サラスヴァティの本来の姿、すなわち水神=天ノ川(あまのがわ)=山からたぎり落ちる水=滝、を理解してのことではなかったか。日本で奈良時代以降全国に普及するこの弁才天(サラスヴァティ)が、インドで出現するのは、紀元前一千年以前に遡る。バラモン教の聖典「リグヴェーダ」に現れる「サラスヴァティー河の歌」では「諸川の中にただ独り、サラスヴァティーはきわだち勝れり、山々より海に流れつつ」(岩波文庫『リグヴェーダ讃歌』辻直四郎訳)と記される。元の意味は「水に富む」とされ、「山」から「海」に流れる弁才天を念頭に置いたのが「天川大弁才天社」を「琵琶山妙音院」とした意味ではなかったのだろうか。  空海以後、旧来の日本的在地の神々を「善神」として取り込む真言宗の「両部神道」、天台宗の「山王神道」が活発に行われ、仏が神の形をとって習合し、仮に現れたとする本地垂迹・権現思想が幕末明治までの主流となっていた。これは前稿で記したようにこれはペルシャ系のクシャン朝がインド社会で仏教を融和的支配軸として採用する際にバラモン教(ヒンズー教)的神々と習合していった仏教の本質に関わると考える。明治元年の神仏分離によって、神の正体とされていた本地仏は投棄された。仏教を軸とする愛川町にある神仏習合の修験道のセンター八菅山光勝寺あるいは八菅寺と七社権現は廃止され、本地仏は、頭部を失い本堂脇に放置されたままという。元々八菅山は蛇形山とも呼ばれ本堂下にある(竜の)左眼と模された左眼池には弁天社が祀られている。これは「天川=天の川=山」の弁才天であった。  比叡山延暦寺の修行の場として神仏習合・山王神道の拠点となった日吉大社(山王権現)では、竹生島から勧請された弁才天が祀られており、「日吉山王曼荼羅」には二十一の「本地」仏の一つに八臂弁才天、「垂迹」神に「巖滝」=二臂弁才天(琵琶弾奏女神)」が描かれているという(「弁才天信仰と図像の中世的展開」中島彩花)。須弥山(比叡山)に近い日枝神社に垂迹神として岩滝=弁才天が祀られ、勧請された竹生島には海のシンボル(水神)として弁才天が二臂弁才天=妙音天の形で祀られているのである。二臂弁才天は、空海の「山の弁才天=琵琶山妙音院」に対して、天台宗の「海の弁才天」として表象されている。この「海の弁才天=竹生島弁才天」が日吉神社の岩滝社に勧請されたのは天台座主第二十八代の教円(1039‐1047)以前に遡る。竹生島には古くから八臂弁才天(宇賀神弁才天)と同時に二臂琵琶弁才天の処する島であった。琵琶の名手として知られていた平経正が木曽義仲征討の途中、竹生島を訪れ、住職に頼まれ、宝厳寺の琵琶を奏でたという平家物語「竹生島詣」などもあり、宝厳寺には金光明最勝王経の宇賀弁財天だけでなく、空海がもたらした大日経の妙音天(弁才天)も祀られていた。江の島の二臂弁才天が江戸以降いきなり芸能の神様として崇拝されたというのは不自然であり、1182年に、文覚が江の島に勧請した「大弁才天」には、八臂の宇賀弁才天だけでなく、二臂の琵琶弁才天も含まれていたと考えるのが妥当だ。

サラスヴァティ

 八菅修験道の拠点としての八菅神社(明治の廃仏毀釈以後の名称;旧八菅山光勝寺)の歴史も、八菅神社の修験回峰の終点である大山寺が、相模国出身(旧秦野市漆久保)の良弁が開創した東大寺の華厳宗の寺から始まり、空海の真言密教、そしてその大山寺を改修した円仁の弟子安然がいたことはこの稿の初めに記したが、この安然以後、「山から海」に注ぐ水神が、11世紀から12世紀にかけて、比叡山「須弥山」の「海の島」竹生島に相当する、東丹沢(大山−八菅修験)の「海の島」江ノ島に勧請され、国分寺の僧尼の修行の場として成立した東丹沢の回峰修験のセンターの「岩滝=二臂弁財天」として表象されたのが塩川滝(=岩滝)そして滝の上にある江の島の淵であったとすることで、日吉神社の下七社の垂迹神である岩滝に竹生島の二臂弁才天が勧請された物語が、竹生島から江の島に弁才天が勧請されたことにオーバーラップされるのである。これは明らかに仏教の護法神として仏教誕生の当初から寄り添ってきた「梵天―弁才天」というバラモン教的法界の宇宙軸や水の物語が、東国の玄関相模国に投影された歴史であった。この稿では、竹生島にも大山・東丹沢、江の島にも足跡を残す空海が、大日経の妙音天=二臂弁才天の種を撒いた可能性に触れなかったが、密教史の前史としてありうることである。  日本では、護国教である「金光明最勝王経」の護法神としての性格がより強く現れた八臂弁才天と、「大日経」の妙音天、水神としての姿が仮託された二臂弁才天の二つの姿が、宇賀弁才天や妙音天として日本社会に普及したが、「梵天=ブラフマー」の娘であり妻であるという元々バラモン教(のちのヒンズー教)のインドの「弁才天=サラスヴァティ」は、この稿の冒頭で記したとおり、イランのゾロアスター教のアフラマズダの娘であり妻である水神アナーヒター女神と同一であると語られる。実はこのアナーヒターにも「山からたぎり落ちる」(アヴェスタ第5ヤシュト「ペルシャ文化渡来考」伊藤義教)という「岩滝」のイメージが水神の本質として描かれている。仏教の須弥山を中心とする九山八海の宇宙観も、ゾロアスター教のハラー山(バラモン教のスメール山=須弥山)を中心としたインド・イラン系の世界観に由来しているのである。前稿で触れた大乗仏教で突如出現した観音菩薩の起源とも語られる女神の秘密(観音菩薩=アナーヒター=弁才天/サラスヴァティ)を次号で記す。

その7に続く

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