第二章―アジア源流「〝幻の河オクサスから世界は始まった〟という物語」 その5

大野遼のアジアの眼

NPOユーラシアンクラブ 会長 大野 遼

【33身に秘密有り。インド社会との融合を図った観音菩薩】

―仏教史上突然ガンダーラで登場した異系の観音菩薩の謎。インドの仏教からソグド人の仏教への転換―

 前稿で、弥勒信仰にみられるバラモンの法界について記した。今回は、観音菩薩について記す。今回記す観音菩薩は、仏教を解き明かすキーワードの一つとして気になってきた。

● 観音菩薩は仏教的法界の万能選手

 観音菩薩は、悩める人々に限りなく救いの手を差し伸べる慈悲の仏として、大乗仏教のシンボル的ほとけさまとなっている。カシミールで小乗仏教から大乗仏教に転身した鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」が流布し、アジアでは、サンスクリット語のほか中国語(漢訳)、チベット語、ウィグル語、西夏語、モンゴル語、満州語、朝鮮語など多くの言語に翻訳されている。ネパールで誕生し、インドで形成された仏教が、観音菩薩を通して、中央アジアからアジア全体に普及した形である。しかしこの観音菩薩は「異系」のほとけさまだった。  仏教的法界において観音菩薩は、釈迦に成り代わるほどの役割を果たしている。  観音菩薩は、「あらゆる方角に顔を向けた者」という意味を持つ「普門」品二十五「観音経」で、観音菩薩を唱え、念じ、礼拝供養することで、七難を避け、三毒から解放され、子どもを授かり、観音は33身に姿を変えて衆生を救うと記される。この33身とは、サンスクリット経典からの翻訳者によって異なっているが、ペルシャでは魔王のひとりと位置づけられるインドラ(帝釈天)が仏教では、梵天とともに護法神となっていることから、バラモン教(のちのヒンズー教)の神を含むインド社会のさまざまな姿に観音が変化して現れると記される。あたかも、バラモン教(ヒンズー教)の社会で観音菩薩が、悩みを解決しながらインド社会に同化する風なのである。現世では、バラモン社会で仏教の利益を説き、未来浄土はバラモンの弥勒菩薩が待機する。前稿で指摘した「予定調和」を観音菩薩が加速しているように見える。この法華経を信仰したのは、自分だけが悟りを開けばよい小乗仏教徒ではなく、自分だけでなく他人も救われなくてはならないと「利他行」を掲げる大乗仏教徒であった。  大乗経典には『法華経』のほかに、『無量寿経』『般若経』・『維摩経』・『華厳経』・等が初期大乗教経典として知られているが、観音菩薩は、般若心経では「空」の哲学者、法華経では現世的利益の救世主、そして法華経及び無量寿経など浄土三部経では阿弥陀浄土へ、つまり現世的利益だけでなく来世極楽浄土への案内者として、仏教的法界の万能選手として活躍する。

● 法華経、観音経が成立したのは1〜2世紀。クシャン朝のガンダーラ

 法華経が漢訳されたのは、西晋の竺法護の「正法華経」(268)が最も早い。竺法護は敦煌生まれのソグド人(月氏)で、敦煌菩薩と呼ばれたという。そして、クチャの王族として生まれた鳩摩羅什の「妙法蓮華経」(406)がその後の法華経流布の根本経典となった。中国僧で西域からインドに渡り、大乗仏教をもたらしたのは東晋の法顕。法顕は旅行記「仏国記」(413年以降)を著し、遭難した商人の船が観音菩薩を念じ祈ると十三昼夜の大風が止み浅瀬に乗り上げ助かったなど、観音経に知られる称名による功徳を記し、その後観音の現世利益の事例は蓄積され、仏教は中国社会に浸透していく。(「観音の来た道」鎌田茂雄)  私が興味あるのは、法華経・観音経が成立した年代と場所、そして観音菩薩はなぜ誕生したのかである。  『法華経』については、小野玄妙氏が「クシャン(貴霜)時代の盛時に、大月氏の領土で制作されたものと認めたいのであって、更に一歩突込ん云えば、同じ月氏の領土といっても、それは邊域ではなくて寧ろその当時の文化の中心圏内である健駄邏(ガンダーラ)附近又は迦畢誠(カピシ;カーブル)附近」(『仏教の美術と歴史』小野玄妙著作集9巻、開明社)、法華経製作の年代も、無量壽、維摩、・・・等とほぼ同じ時期である「二世紀の末」(同)と推定している。中村元氏は、「『法華経』信解品において記される金融を行って利息をとる長者が、臨終に及んで国王を畏怖駆使するほどの資本家であることから推して、貨幣経済の急激に発達したクシャーン朝ウェマ(ヴィマ)=カドフィセス時代(37〜)以降で、さらに『法華経』が宝塔の出現を主なテーマの一つとすることから、ストゥーパ建造の激増期が、同ヴァースデーヴァ王時代(202−229)までで、その後急速に衰退する現象のみられることを通して、これを下限」(「大乗仏教の成立史的研究」三省堂)とした。宮治昭氏は「(観音信仰は)『法華経』「普門品」と『無量寿経』に出るものが早く、おそらくAD.1〜2世紀頃に観音信仰が興り、経典に相次いで取り入れられたのであろう。・・・AD.1〜2世紀という時代は、クシャーン時代の最盛期に当たる」「(『観音菩薩像の成立と展開』宮治昭)と記している。すなわち、クシャン朝の最盛期の2世紀前後に法華経が成立し、「観音経」もこの過程で成立したと考えられている。無量寿経、般若経も、成立はこの時期のようだ。インドで観音菩薩像が作られるようになるのも「紀元後1世紀以降」ということになる。  大乗仏教における観音菩薩成立の時代は1世紀〜3世紀、場所はインド北西部ガンダーラからカーピシ(今のパキスタンからアフガニスタン)、しかし何故、誕生したのか、釈迦の脇侍として未来仏である弥勒と現世利益を展開する観音が三尊像として成立したかは謎だ。

● インド社会との融和を目指して誕生した大乗仏教

カニシカ王

カニシカ王(上)と カニシカ王のシャリ容器(下)

カニシカ王のシャリ容器

 クシャン朝が誕生し、カニシカ王(144-164・173)の時、サンスクリットの経典が整備され、釈迦、弥勒、観音のガンダーラ仏が姿を現す直前の、時代背景を記さなければならない。紀元前後のインド北西部からイラン東部では、パルチア・サカの王による共同統治の存在が指摘されており「イラン東部とインド西北部には、通常、王に相当する統治者が同時期に三人いた。イランの『諸王の王』と、その王と共同統治する年少の同じ王族の者、そしてインドのもう一人の『諸王の王』であった。・・・イラン東部では統治者が、共同統治していた同族の者と貨幣を発行した。王の銘はギリシャ文字で、共同統治者の銘は裏にカロシティ文字で記された。・・・いくつかの貨幣とタキシラ出土の碑文から、マウエスが西方のプシュカラワティとインダス川東方のタキシラをふくむガンダーラ地方を征服したことがわかる」(『パルチアの歴史』ニールソン=C=テベボイス)という。「三尊像」の起源については、総合的に研究されなければならないのだろうが、クシャン朝直前の「三人による共同統治」の存在が意外に「三尊像」の起源に影響を与えなかっただろうか。マウエスがクジュラ・カドフィセスの共同統治者ギリシャ人のヘルマウエスとみられ、のちにクジュラ・カドフィセスはヘルマウエスを廃し、パルチア最後のゴンドファルネス王にかわり、アフガニスタンのカブールからガンダーラまで急速に勢力を拡大した。その結果、インド北西部からイラン東部のギリシャ人とパルチア・サカ勢力に替わるソグド系ペルシャ人の支配が確定する。  こうして紀元1世紀〜3世紀、北西インドのガンダーラ(今のパキスタンから北西インド)を支配するようになったのがクシャン朝であった。もともと、今の中国・甘粛省(有名な西域と中原をつなぐ河西回廊があった地域)にいた。匈奴に追われ、先住のサカ族(スキタイ系)を追い今のキルギス共和国付近にいたところをさらに烏孫に追われ、南下、アムダリア川周辺に定住。武帝の派遣した張騫が訪れたときは大月氏として覇権を拡げ、サカがアムダリア南岸に形成した大夏(トハラ)やパルチアを討って、五翕侯の中から出たクシャンが東イランから北西インド、そしてカニシカ王の時(127年以降)ペシャワールを首都(ガンダーラの中心)とした。  法華経の誕生したカニシカ王の頃(2世紀中頃)に、大乗仏教の中興の祖というべき龍樹(ナーガールジュナ;150-250頃)が登場している。龍樹自身はバラモンの出身者で、鳩摩羅什によって知られるようになった龍樹は、バラモン教を習得し、小乗仏教を経て大乗仏教を般若経の空をもとに体系づけた。「中観」を著し、あらゆる存在は、縁起によって成立し、無自性にして相互依存によって「空」なのだと説く境地は、仏を見る悟りにつながると、後の大乗仏教・密教の諸宗派の「八宗の祖」とされている。  紀元前1世紀頃、インド北西部は、マウリヤ朝のインド王権から、サカやインド・パルチア王国など、スキタイ、ペルシャ系王族の支配に替わっていたが、このカニシカ王に先立つ、クジュラ・カドフィセス、ヴィマ・タクト、ヴィマ・カドフィセスの頃、インド中央部からネパールにかけた広大な地域を有し、ペルシャ・ソグド系によるインド支配が確立。大乗仏教は、ペルシャ系・ソグド人の王国・帝国がインドを支配する過程で誕生し、アレクサンダー遺民というべきギリシャ・ヘレニズムの文化を背景に、アジア史の転換期に、法華経などの大乗経典、大乗仏教的美術としてガンダーラの仏像群が誕生したことになる。  こうしてインドでは、カニシカ王の頃、龍樹が仏陀の「空」の思想を縁起の考え方で論理的に確立し、観音菩薩が現れて、仏教は反バラモンの平等主義からインド社会での融和的思想に衣替えした。グプタ朝が4世紀以降、バラモンを社会制度に組み入れ、ヒンズー教を中心とする宗教政策を執りながら、仏教も活動が保障され、ナーランダ僧院が設立され大乗仏教の教学研究は進み、法顕などの外国僧がナーランダ僧院で学んでいるのも、ヒンズー社会に仏教が受容され、急速にヒンズー化したためと考えられる。クシャン朝の時に整備された大乗仏教が「反バラモン」ではなく、バラモン社会と融和する方向を取ったことが、バラモン社会で活動を認められた原因であると同時に、これがインドでの大乗仏教衰退の原因ともなった。  仏教史を振り返ると、釈迦入滅後200年たったインドのマウリヤ朝の時アショーカ王によって第3回仏典結集が行なわれ、仏教が支持されたが、この時はまだ「反バラモン」が基軸で、アショーカ王は仏教とほぼ同時期に成立したジャイナ教も支持していた。それは、マウリヤ朝を立ち上げた初代チャンドラグプタがインドの階層制社会では卑賤の出自であったことに関係しているようだ。チャンドラグプタは西北インドからギリシャ勢力を一掃し、アフガニスタンまで支配を拡大してインドの初の帝国を拡大した。しかしアショーカ王の仏教興隆は、インド国内のバラモン階級を敵に回し、アショーカ王以後マウリヤ朝は衰退する。  それに対してクシャン朝は、インドの社会的階層の出身ではなく、イラン系の中でもアケメネス朝ペルシャから支配される傍系のソグド系。上記のように、大きくペルシャ系とくくられる、スキタイ・サカ、パルチア、クシャンといった、インド社会にはない非バラモン教系の王国・帝国が仏教を取り入れてインド社会を支配するという時代であって、自ずから、ペルシャ系が「反バラモン」を掲げてはインド支配がうまくいくはずがなく、インドのバラモン教の社会勢力を吸収する方向で展開するしかなかったと考えられる。それが、「法華経」やバラモン出身者の弥勒菩薩(未来の弥勒如来)そしてインド社会のバラモン出身階層のあらゆる人々を救済するとして観音菩薩が誕生した原因と考えられる。バラモン出身者の龍樹が「中論」を著し、クシャトリア出身の釈迦の平等主義を再構成し受け入れられ、大乗仏教の体系としてその後の仏教の流れが決まっていくが、その決定的な要素は「反バラモン」から「バラモン的インド社会との融和」。つまり限りなく、バラモン的(ヒンズー的)社会的階層の人々の救済を歌うことによって、経典の整理が行なわれたことが本質だと判断される。もともと大乗仏教においては、従来の出家本位の在来の教団仏教との関係性、インド社会のバラモン的階層との関係性が課題となっており、小野玄妙氏は、在来の教団との関係性については、「(法華経が)如何にして作られたかといふ問題につきては、・・一體大乗佛教は、原始佛教に對抗して起こった異系の教派であって、此の両者の間には、教理の内容ばかりでなく、平素の実勢上の行儀の上にも根本的な相異がある。・・・(原始佛教と大乗仏教の優劣論を超越して)所謂一種の調和説として一切皆成佛の説を唱導するに至ったものと見ることが出来る」と指摘した。  私は、マウリヤ朝においては、仏陀本来の諸説、カースト制度に反対する反バラモン教的平等主義で仏教を信仰したのに対して、ペルシャ系ソグド人の王国・帝国を形成したクシャン朝の大乗仏教は、インド社会との関係性においても「調和(融和)」を目指さざるを得ず、その中心的役割を果たしたのが未来仏であるバラモン出身の弥勒菩薩と、小乗系の修行者を念頭に置いたとみられる声聞、独覚やバラモン教の梵天、インドラ(帝釈天)を含めて33身に姿を変えて救済する、仏陀に代って活躍する観音菩薩の登場が求められたと想像される。

● 仏教史上突然出現した法華経と観音菩薩

 大乗仏教の仏たちを形成するようになったガンダーラの初期の仏像の中で釈迦を中心とする三尊仏の脇侍として立つ二体のうち、釈迦に替わる未来仏がバラモン出身の弥勒菩薩とされたのに対して、観音菩薩は、龍樹作ともいわれる大智度論巻七では「他方の仏土から来た菩薩」と記されている。岩本裕氏は、「観音あるいは観音菩薩というほとけはインドの仏教史に突如として出現する。しかも、完成された現世利益のほとけとしてである。(仏教史上の展開の歴史については)・・その足跡の片鱗さえ拾うことはできない」(「仏教説話研究第三巻」『観音―この不思議なほとけ』岩本裕)と指摘している。  「突如として出現」した観音菩薩の起源について、岩本裕氏は「クシャン帝国の諸王の貨幣に見られる女神ナナイア(ナナ)あるいはオルドフショーであると考える。この両女神はイランの女神アナーヒターがガンダーラ地方に受容された姿・・アナーヒター女神は水の神であると同時に豊穣の神であるが、右手に王権の表象である飾り輪を持ち、壺から水が流れ出している。軍持(水差し)を持ち、レンゲなどの表象を持つ観音像と同型であることを忘れてはならない」(上記同)と記し、クシャン朝で女神が仏教に受容されて男性の観音になった(仏教の変成男子の教説)と考えた。伊藤義教氏は東大寺二月堂のお水取りに遠敷=アナーヒド(アナーヒター)の水が観音に供えられるとの考えで「(観音の)他方仏土」を考証し、「他方」を「(クシャン朝のふるさとである)バクトリア以遠」とし、観音の系譜としてゾロアスター教の女神アールマティやアナーヒターを取上げ検討している(「ペルシャ文化渡来考」伊藤義教)。

奈良・法華寺の十一面観音

奈良・法華寺の 十一面観音

 中国へ大乗仏教を伝えたのは鳩摩羅什のような人もいたが、漢の哀帝の元寿元年(前2年)に大月氏の使者である伊存が「浮屠経」を伝えたり、既に触れたように初めて中国に「正法華経」を伝えた竺法護が敦煌菩薩とか月氏菩薩と呼ばれた敦煌のソグド人であったなど、ペルシャ系ソグド人の僧が実に多かった。バクトリアあるいは東イランで形成されたクシャン朝を形成するソグド人の奉じるゾロアスター教から仏教に入ったアナーヒターが観音に姿を変えたとすれば、仏教を捧持し、中国にそして日本に仏教を伝えた僧の中にソグド人が多かったことも理解できる。日本や中国、朝鮮を覆う大乗仏教の法界は、バクトリア(今のアフガニスタン)を揺籃の地とし、ガンダーラ(今のパキスタン)で結実した、ソグド人によるものであった。匈奴に追われたソグド人が大乗仏教を抱えて東アジアに戻ってきたともいえる。シルクロードのビジネスマンとしてアジア各地にソグド集落を構えたソグド人にとって、自らのゾロアスター教だけでなく、インドで融和的な宗教に変貌した大乗仏教を広めることは、ソグド人の商行為にとって、地域に溶け込む「符牒」、絆として大いに役立ったと十分に想像される。日本では大乗仏教の象徴として受容された。戒律を伝えるため来日した鑑真に同行し、日本で僧となり、唐招提寺第三代の住職となった安如寳も、揚州のソグド人であった。

その6に続く

※この稿で記す「小乗」とは、部派仏教から生じた「説一切有部」を指す。「利他」優先の「大乗」を重視し、「小乗」で表記を統一した。  【メモ:仏教的法界の万能選手・観音菩薩】  観音菩薩は法華経の「普門品第二十五」、いわゆる「観音経」で、「南無観世音菩薩」と称名すれば、三十三身に姿を変えて現れて、あらゆる苦難を避け、願いを叶える、仏教で最もポピュラーな菩薩で、全ての宗教流派で信仰の対象となっており、仏教的信仰の軸に位置している。前稿で記したとおり、インドで仏像が出現した当初は、釈迦如来、インド系バラモン出身の弥勒菩薩と異系の観音菩薩が三尊一体で表象され、観音経では、阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩と共に観音菩薩が「右側あるいは左側に立つ」と記され、時空を超えた兜率天の弥勒(未来)浄土、阿弥陀(西方極楽)浄土への案内者として描かれている。特に阿弥陀浄土が語られる、浄土三部経では、阿弥陀如来の極楽浄土に行く最後の場面では、観音菩薩の持つ金蓮華に乗ると指呼(弾指)の間、すなわち瞬時に極楽浄土に往生できるとし、決定的な役割を担わされている。観音菩薩無くして大乗仏教そして密教はないといっても過言ではない。華厳経では、善財童子が文殊菩薩を初めに53人の全知識に会って悟りを得る求道の物語が「入法界品」で語られ、28人目に観音浄土というべき補陀落山で出会うのが観音菩薩。53人目に弥勒菩薩に出会い、最後に文殊菩薩に再びあって、普賢菩薩に会い、悟りの境地に至る。華厳経に基づく釈迦如来の脇侍には、「文殊菩薩」と「普賢菩薩」が配置されているが、仏像誕生の当初は、善財童子が求道の過程で出会った「観音菩薩」と「弥勒菩薩」が、釈迦如来の脇侍として並べられる事が多かった。

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