第一章―アジアの音楽史「江戸歌舞伎はチンギスハーンがいなかったら誕生しなかった!?という物語」 その9

大野遼のアジアの眼

NPOユーラシアンクラブ 会長 大野 遼

【明代初頭に福建省から伝わった】

―朝貢貿易で伝わった三弦文化、文化変容で琉球古典音楽の歌三線に変貌。不健全な中華思想に注意―

 前号で、邦楽は「外来文化の伝播の観点から理解する」必要があり、鍵はアジアの音楽史の中にあると書いた。そして「三味線」がその鍵を握っているとも主張しているのがこの稿である。キーパースンが、琵琶から「三弦」に持ち替えて「浄瑠璃三味線」を創始した澤住検校であることもこの稿の2号で紹介した。その「三弦」は、1562年、琉球からの交易船で大阪・堺の港に乗せられて着いた。その棹数はわからないが、「三弦」を最初に手にした琵琶法師以外に、織田信長が朝廷に献上した「三弦」もあったことを考えると相当数あったことが想像される。「三弦」は、琉球では「三線」と呼ばれていた。  それでは琉球で「三弦」「三線」はいつ誕生したのであろうか。  「外来文化の伝播」の観点から琉球の三線を考えるときに、昨今の「尖閣諸島」の領有権の議論とも抵触するので、今回の稿では、現在沖縄県と呼ばれている「琉球」の成り立ちについて概略記す。現在の沖縄諸島、沖縄県は、歴史的に、琉球王国、琉球藩、琉球政府と呼ばれた時期が有り、現在の沖縄県につながっている。中国が1972年から領有権を主張し始めた尖閣諸島は、沖縄県石垣市登野城に所在する。沖縄本島から西方150キロに位置する。  1958年の北京で発行の地図、1965年中華民国(台湾)発行の地図では「尖閣群島」と日本領・日本名で記載されていたのが、1968年10月12日 - 11月29日、日本、中華民国、大韓民国の海洋専門家が国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の協力の下に東シナ海一帯の海底を学術調査。海底調査の結果、「東シナ海の大陸棚には、石油資源が埋蔵されている可能性がある」ことが指摘される(現在では尖閣諸島周辺にはイラクの原油の推定埋蔵量の1,125億バレルに匹敵する、1,000億バレル以上の埋蔵量があることがほぼ確実とされている)―と、中華民国は翌1969年 5月、付近海域の石油採掘権をアメリカのガルフ社に与えると共に、「青天白日旗」を尖閣諸島に掲揚し、世界中の通信社に配信。中華民国も中華人民共和国もこの年あるいは翌年発行の教科書や地図では「尖閣諸島」「尖閣群島」として日本領・日本名で記載していたが、1971年の沖縄返還協定の過程で、中華民国は尖閣諸島を沖縄返還領域から除外するよう求めたが、協定付随議事録で経緯度線で返還領域が記されたという。中華人民共和国はこの段階で、1971年12月30日に初めて、尖閣諸島の領有権を主張。 同国外交部声明で「早くも明代に、これらの島嶼はすでに中国の海上防衛区域にふくまれて」いたと発表した。  歴史的な領有権問題は、近世以降「国家」「国境線」が、その中の人と資源の領有を宣言するもので、植民地帝国時代の産物として、地球上の津々浦々で争われている。近代「国家」の持つ対外資源侵略的な本質の表れであって、外交は「国家」をどちらの勢力圏に入れるかによって決定されてきた。勢力の伸張に伴いこれまで拡張主義の誘惑から免れた「国家」はあるのだろうか。地球上最後の植民地帝国として機能している「中華人民共和国」は、当然の行動として尖閣諸島を奪いに来る気配が濃厚だ。しかし、中国の習近平が語っている拡張主義は「朝貢貿易」をもって語っている点から、紛れもない「華夏」「中華」思想であり、時代の趨勢に適わないものである。明の「朝貢貿易」は、特に倭寇を念頭に置いた海禁政策下の貿易独占の手法であり、これをもって「中国の海上防衛区域」とするなら、日本も領有権の対象となりかねない。  中華人民共和国が1971年12月の外交部声明で触れている「早くも明代に」というのは、この稿で取り上げる琉球における「三弦」「三線」の起源にも関わる、「琉球王国」前夜の、琉球にあった三王国の動向のことである。  琉球の三線の起源について、沖縄県指定無形文化財八重山古典民謡技能保持者で沖縄三線指導者の伊良皆高吉さんによると沖縄に中国江南地域から三弦が伝わったのは1392年のことであったという。  三王国の時代は「英祖」王統の最後、伝説の時代と琉球王国の時代の前夜に当たる14半ば。この頃琉球には、「南山」(糸満市、沖縄県島尻郡南部)「中山」(那覇市、浦添市、沖縄県中頭郡)「北山」(沖縄県国頭郡、鹿児島県与論島と沖永良部島)に王統が分れ、中山王国の察度王は、英祖王統を滅ぼし察度王統を成立させ、1372年、求めに応じて中国へ朝貢の使者を派遣し、他の南山、北山もそれぞれ、朝貢の使者を派遣している。この頃中国を支配していたのは、モンゴルが中国を支配していた元末、白蓮教徒の反乱(紅巾の乱)に乗じて、江南を抑えて、1368年に皇帝となった朱元璋(太祖洪武帝)の明(明教;マニ教から命名)であった。朱元璋の明国は、対外的には倭寇が海岸部を荒らしまわっており、その跳梁に手を焼き海禁政策(鎖国)をとり、貿易は朝貢の形しか認めなかった。国内的には、政権基盤の安定のために、明国の建国の功臣を大量殺戮し、大粛清の最中で、伊良皆さんが中国江南地域から三弦が伝わったという1392年には息子の朱標が死亡し、孫を世継(建文帝)と定め、さらに最後の功臣粛清を行っていた。  朱元璋は、倭寇の後ろ盾は日本と捉え、取締を期待して日本を服属させ、朝貢させようとしていた。しかしこれがうまくいかないことにいらだっていた。琉球王国からの提案(朝貢−冊封)は嬉しいことであったに違いない。中山王国からの朝貢に対して大量のお返しがあったという。中山王国では、東南アジアや朝鮮との交易も含め、海上の要としての地理的強みを生かした王国運営を行った。一方日本では、天皇家が京都(持明院統)と吉野(大覚寺統)に分裂する南北朝時代。朱元璋は、一時九州にいた南朝側の懐良親王を日本国王として受け入れ朝貢を受け入れていたが、倭寇は収まらず、朱元璋は「日本国は朝するといえども、実は詐りなり。ひそかに奸臣胡惟庸に通じ、謀りて不軌をなさんとす。故にこれを断つ」(『皇明祖訓』)と、1384年から日本との国交は断絶されていた。南北朝は、室町時代三代将軍足利義満の時代(1368−1394)、1392年に合一されたが、日本との朝貢貿易が再開されるのは、義満が将軍職を義持に譲り実権を握り、1398年に大内義弘を討伐し、出家したあと。「日本国准三后源道義」の名義で1401年(応永8年)、博多の商人肥富と僧祖阿を使節として明に派遣し、朱元璋の孫・建文帝が朱元璋の遺訓にもかかわらず義満を日本国王に冊封してからで、同時に明の大統暦が日本国王に授与され、両国の国交が正式に樹立された。建文帝は前年に朝鮮(1392年建国)の李成桂も朝鮮国王として冊封するなど、積極的な外交政策を採っていた。道義(義満)の国王冊封後わずか4ケ月後に靖難の変で建文帝は逐われるが、後を継いだ永楽帝は日本外交を引き継ぎ、1404年勘合貿易が開始され、倭寇も沈静化していく。ただし明国との朝貢以外の貿易を禁じ、沿岸住民の航行を制限する海禁政策は、その後も16世紀に緩和されるまで継続した。  「朝貢貿易」という中国との特殊な交易形態は、アジア中で展開され、琉球では、琉球三王国のあと、この中山王国を倒した尚巴志による第一次尚氏王統(1429年〜)と第一次尚氏王統を受け内間金丸が立てた第二次尚氏王統(1470年〜)と続き、途中薩摩藩の侵攻もあったが幕末明治の廃藩置県まで明、清との朝貢貿易は続いた。1872年3月の沖縄県令の赴任による王統の終了(琉球処分)で、琉球王国史は終わる。  要するに沖縄三線指導者の伊良皆高吉さんが琉球に中国から三弦が伝わったというのは、倭寇取締で朱元璋が日本との国交を断絶している日中関係空白期の1392年のことだった。琉球と中国のあいだで朝貢貿易が始まった時期のことであった。

● 久米三十六姓の伝説

 沖縄には、那覇市に「久米」と呼ぶ一角がある。17世紀に羽地朝秀が編纂した「中山世鑑」という琉球王国初の正史によると、洪武二十五年(1392)、明の皇帝が福建閩人三十六姓を琉球に送り、その時からこの人々によって明国の礼楽が琉球でも始められたという。以来、私交易を含め江南地域からやってきた中国人が住む村が久米村であった。1392年に渡ったとされる福建省の閩人(閩江下流域の人々)はのちに「久米三十六姓」として明代以来、沖縄の経済、政治、文化の担い手の一角をになった子孫たちが琉球王国、琉球藩、琉球政府、沖縄県の特色ある風土の基盤を支えている。その中で、三弦の楽器を含めた音楽についても、「始めて音楽を節し礼法を制し土俗を改変して文教同風の盛を到さしむ。太祖(明の皇帝)称して礼儀の邦と為す」(「球陽」)とも記され、中山王国察度王の時に、三弦も伝わったと考えられている。別の考えでは、1392年以前から、察度王が朝貢使を送った1372年以前に遡るとも言われる。

三線の画像

 琉球三王国を統一した尚巴志による第一次尚氏王統の時、王府首里城が形成され、察封使を受け入れる礼楽や琉球独特の歌の伴奏として始まった古典音楽「歌三線」として整備され、薩摩の侵略で江戸幕府の封建制度の中に入りながらも、湛水親方こと幸地賢忠による(後の湛水流)宮廷音楽の復興が行われ、のちに江戸時代後期には宮廷音楽「工工四(くんくんしー)としてまとめられた。琉球古典音楽は、中国や朝鮮、日本の使節をもてなす音楽として発達した。伝来した三線は、当初は上流階級だけに普及し、一般庶民に手の届く楽器ではなかったが、琉球王国最盛期とも言われる第二尚氏王統三代目尚真王(在位1477〜1527年)の時代、吟遊詩人として知られる赤犬子(あかいんこ)が三線にあわせて「おもろ」(琉球方言で『思い』:歌の意)を歌い、自作の即興詩に三線を乗せて歌った頃から、庶民の歌に合わせた楽器として三弦「三線」や琉球民謡が浸透したとされる。  伊良皆高吉さんによれば、琉球王国の首里城内で王家の武士の楽器として完成したあと、1562年に交易船で堺に伝わったと考えている。  この琉球に伝わった三弦は、福建省や中国江南沿岸部で使用されていたものであった。実は、この三弦という楽器は、モンゴルが中国を支配した元の時代に誕生した楽器であった。元の王統を形成したモンゴル人から、白蓮教徒による紅巾の乱に加わって皇帝になった、安徽省の貧農の末子(八番目)で生まれた朱元璋(幼名重八)の一族が支配する明国に変わっても、その三弦文化は明国、そして清国へと継承され、「中華人民共和国」の現在まで継承されている。  中国では三弦の文化だけでなく、北魏から隋唐の昔に西域から伝わったペルシャ系の四弦琵琶も中国の管弦の重要な楽器として今日まで継承されている。  平成14年に、西洋クラシック音楽だけを芸術として教えるのではなく、世界の諸民族の音楽を公平に考えて「世界の諸民族の音楽」と考えるとした日本の音楽指導要領の改訂の考えを中国に適用した場合でも、「伝統文化」「外来文化」「文化変容」の観点で中国の音楽文化を見ることは可能である。これは別途試みる値打ちのあることである。  「中国」では、古来周辺地域との関わりで発展してきたにもかかわらず、「外来文化」の影響を重視することが少なく、「国」のあり方として、「華夏」「中華」といった考え方が強い。「中華思想とよばれる。みずからを夏,華夏,中華,中国と美称し,文化程度の低い辺境民族を夷狄(いてき)戎蛮とさげすみ,その対比を強調するので,華夷思想ともよばれる。自国の優越性に対する強烈な自負と自信が中華意識となって結晶したものにほかならないが,それは天下において,文化的にもっとも傑出した,地理的に中央の地であるとの矜持(きようじ)である。」(世界大百科辞典《中華思想》より)と理解される。多様性の受容、一人一人の人格の肯定という観点からいえば不健全極まりないと言うしかない。  明代中国は、対外的には閉鎖的な「朝貢貿易」を広げ、永楽帝の時には鄭和を東南アジア、インド、アフリカまで送り、中国の影響力を拡張しようとした。時に、中華人民共和国を立てた毛沢東は、白蓮教徒の紅巾の乱で浮上した朱元璋を例にあげて語られることもあるが、福建省で17年間勤め、沖縄とも台湾とも深い関わりを持ってきた中華人民共和国の習近平が、永楽帝の時代を想起していないかどうか、危惧されるところである。中国は「琉球列島は、古くから中国の領土である」とのプロパガンダを始めている。「中華」思想で人類が生き残る道はない。国家民族宗教を超えて一人ひとりが大事にされる人類の枠組みが模索されるべきである。  次号で中国における三弦の誕生と琉球の三弦について触れる。

その10に続く

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