第一章―アジアの音楽史「江戸歌舞伎はチンギスハーンがいなかったら誕生しなかった!?という物語」 その3

大野遼のアジアの眼

NPOユーラシアンクラブ 会長 大野 遼

【「常識」「当たり前」の歪み】

―江戸歌舞伎発祥の地は京橋より日本橋に近い「中橋南地」:八重洲・日本橋3丁目交差点 = 日本橋は江戸歌舞伎形成の地―  前回は、アジアの音楽のシルクロードやアジアの音楽史を考える時に大事だと思われる時空を超えたキーパースンを2人紹介した。象徴的に表現すれば、この2人を介して日本の近世邦楽、江戸歌舞伎は形成されるのだが、「音楽」をキーワードにしながら、「アジアの目線」で日本を見ようとした時に、最も気になったことを最初に取り上げる。それは、日本で形成されている音楽的「常識」や「当たり前」といったジャンルに属する理解のことである。  私は、3年前に、NPO法人の本部事務所を日本橋に移転した。15年ほど、音楽を通してアジアを理解する活動を行う過程で、アジアと日本をつなぐ象徴的な地域の一つが日本橋だと気付いたからである。江戸歌舞伎や浄瑠璃、近世邦楽は、日本橋一帯で形成され、1842年に浅草に移転、明治になって現在の銀座の歌舞伎座を中心として日本の総合舞台芸術の活況を呈するに至った。日本橋は、アジアの音楽史が凝縮されたアジアの音楽のシルクロードの終着駅だと考えている。そのためには、「江戸歌舞伎発祥の地」についての理解の歪みは正されないといけないだろうというのが今回の一文である。  前号で紹介した、浄瑠璃神社に近松門左衛門と並んで祀られる浄瑠璃七功神の一人で、浄瑠璃三味線の祖と讃えられる澤住検校は、今日まで関西の人形浄瑠璃である義太夫節・文楽を構成する太夫(たゆう)・三味線・人形遣いという三業(さんぎょう)の中で、三味線方が「野澤」「鶴沢」など「澤・沢」の字を継承する形で、七功神の一人への敬意が示されている。江戸・東京では、1623年、澤住検校に浄瑠璃を学んだ弟子の薩摩浄運が京都の四条河原から江戸に移り、滝野検校の下で浄瑠璃を身につけ10年前に江戸に出ていた弟子の杉山丹後と競い(この項諸説あり)、江戸浄瑠璃の祖と言われるほどの活躍を見せた。1624年、若衆歌舞伎を始めた猿若(中村)勘三郎が江戸に出て、日本で初めての歌舞伎座(若衆歌舞伎)をスタートした。1603年に出雲阿国が四条河原で始めた歌舞伎は、澤住検校の弟子薩摩浄運が弟子の杉山丹後と一緒に基礎を築いた江戸浄瑠璃と1624年に江戸で邂逅し、これが江戸歌舞伎「発祥」と形成の起点となった。  その後浄瑠璃三味線がどのように形成されたかは既に多くの専門家が語るところに委ねるが、今回取り上げるのは、江戸での歌舞伎と浄瑠璃の邂逅の場所である。アジアの音楽の系譜の中で、江戸歌舞伎形成の起点となる場所を正確に理解し伝えることは、近世邦楽や江戸歌舞伎の成り立ちを立体的に把握する上で欠かせない。猿若(初代中村)勘三郎と薩摩浄運が出会った場所はどこなのか。  現在歌舞伎座がある銀座4町目(旧木挽町)に山村座ができる20年前、寛永元年(1624年)2月、二代将軍家光の時代に、「江戸中橋南地」(中村家の江戸三芝居由緒書(享保10年1725年)による)で猿若座の名で興業を始めたのが最初とされる。  私は「中橋南地」に興味を持って東京都公文書館や江戸東京博物館を訪ねて古地図を眺めたり、さまざまな情報を整理して考えると、この「中橋南地」は、江戸初期に最初に埋立造成された日本橋の日本橋川から京橋川までの間に架橋された「紅葉川の中橋」を指しており、現在では八重洲通となっている旧紅葉川と中央通りの交差点付近である。「中橋南地」(後の中橋広小路)は、当時歓楽街であったという。  これは現在さまざまな表現で語られている。「京橋中橋の南地、現在で言へば日本橋通りの丸善の附近」(川 尻 淸 潭)、「現在の日本橋通3丁目付近」(世界大百科事典【劇場】)、「中央区日本橋」(朝日日本歴史人物事典−長谷川勘兵衛(初代)の解説)などが、「中橋南地」に一番近い表記と考えられる。  しかし現在、「江戸歌舞伎発祥の地」の石碑は、日本橋同様、高速道路の高架下となった旧京橋跡地に昭和32年、江戸歌舞伎旧史保存会という団体の名で建設された。「中橋南地」から南西に500m離れた場所に立っている。碑文によると「江戸歌舞伎 寛永元年二月十五日元祖猿若中村勘三郎中橋南地と言える此地に猿若中村座の芝居櫓を上ぐこれ江戸歌舞伎の濫觴也・・・」と記され、「中橋南地と言える此地」と明言している。「此地」の意味は「(石碑の建つ)ここ」という意味である。  中村勘三郎家のホームページ「中村屋」では「中橋南地(現在の日本橋)に猿若(中村)座の櫓を上げた」と紹介しているものの、?松竹が運営するウェブサイト「平成中村座紹介」では「中村座ゆかりの地 浅草」という説明では、「中橋南地」(現在の京橋付近)と記し、「これが江戸歌舞伎発祥の地でもあります」と全く違う表記をしている。また?松竹が運営する歌舞伎公式総合サイト「歌舞伎美人」の説明に至っては「京橋川の南側にあたる中橋南地に猿若座(後の中村座)の芝居櫓をあげたのが起源。このあたりは、実は歌舞伎に縁のあるところだったのです。」とまで記し、「紅葉川の中橋」ではなく「京橋川の中橋」と明らかな誤認をネット上で公開している。現在の京橋付近  京橋川の南側にあたる中橋南地 幸いに、(株)歌舞伎座のホームページ「歌舞伎座写真ギャラリー記念碑リニューアル」では「初代中村(猿若)勘三郎が「猿若座」をおこしたのが、ここ中橋南地(現在の日本橋通り2丁目付近)。その江戸歌舞伎誕生の地を顕彰し、松竹創業者、大谷竹次郎が昭和32年にこの記念碑を建立しました。」と「中橋南地」についてほぼ正確に記しているものの、600m離れた「京橋」に碑を建てた理由は述べられていない。 「神田川まる歩き」というウェブサイトの運営者は「(八重洲通と中央通りの)交差点周辺には記念碑、解説プレートの類は一切ありません。(おそらくスペースの関係でしょう)」と、500m離れた「お隣の京橋の高架下に、「歌舞伎発祥の地」の記念碑」が建った理由を想像している。 私は「石碑」を建立した松竹創業者が「(猿若座から20年後に山村座が櫓を上げた)木挽町(旧東京都京橋区木挽町3丁目、現在東京都中央区銀座4丁目)のあった場所に歌舞伎座が建てられたことを重視した」ためではないかと想像する。いずれにせよ「誤記」は正される必要があるだろう。 以上、改めて江戸歌舞伎形成の起点となった「中橋南地」を現代の地名で表現すると、明らかな誤りは除けば、「日本橋通りの丸善の附近」(川 尻 淸 潭)、「日本橋通り3丁目の附近」((世界大百科事典【劇場】)、「中央区日本橋」(朝日日本歴史人物事典―長谷川勘兵衛(初代)の解説)、「日本橋」(中村勘三郎家のホームページ「中村屋」)、「日本橋通り2丁目付近」((株)歌舞伎座のホームページ「歌舞伎座写真ギャラリー記念碑リニューアル」)となっている。 木挽町も山村座を初めとする芝居小屋で多くの人々の足を集めた時期があったとはいえ、「中橋南地」以降、日本橋堺町、禰宜町、人形町、そして江戸三座(中村座・市村座・森田座)が浅草・猿若町に移転させられるまでに形成された江戸歌舞伎を代表とする江戸近世邦楽の起点が、現在の京橋にある「江戸歌舞伎発祥の地」石碑よりもより日本橋に近い「紅葉川の中橋」すなわち、京橋ではなく八重洲通と中央通りの交差点付近であったことは、その後の日本橋での江戸歌舞伎の形成を考える時大変重要な理解と思われる。要するに澤住検校の弟子で江戸浄瑠璃の祖となった薩摩浄運や猿若勘三郎など京都の芸能者は「京橋」を目指したのではなく、五街道の起点である「日本橋」を目指して江戸に進出し、日本橋近くの河辺「中橋南地」で小屋を開いたのである。芸能者がまだ河原者と呼ばれた時代であった。アジアの音楽の系譜、時空を超えた音楽のシルクロードの終着駅を考える上で欠かせない視点である。

現在の地図との比較

地図上「八重洲」と書いているところが「中橋南地」。現在の住所表記上は「日本橋通三丁目」と「京橋一丁目」の境界。旧地名では「中橋広小路」。 ここが江戸浄瑠璃の祖薩摩浄運の浄瑠璃小屋と猿若こと中村勘三郎の猿若座邂逅の地で、江戸歌舞伎発祥の地。松竹が建立した「碑」は500南の京橋にあり、誤った表記を生んでいる。

その4に続く

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