一人の著作権実務家の死

棚野正士備忘録

2011.7.28 IT企業法務研究所代表研究員・元芸団協職員 棚野正士

 元・芸団協(社団法人日本芸能実演家団体協議会)職員清水芳明が2010年8月17日急死し今年(2011年)一周忌を迎える。享年61歳であった。清水は昭和53(1978)年芸団協に入り、平成13(2001)年退職した。この間、芸団協庶務部長、経営企画部長、貸レコード業務部長を務め、平成5(1993)年芸団協の著作隣接権関係業務に係る専門機関として実演家著作隣接権センター(CPRA)が設立されてからは、CPRA担当業務部長、CPRA総務室室長を歴任した。

1.商業用レコード二次使用料

 わたくしは、小論「商業用レコード二次使用料請求権の運用にみる実演家の著作隣接権思想の変容」(「著作権法と民法の現代的課題―半田正夫先生古稀記念論集―」所収(法学書院 2003))にこう書いた。 「指定団体である芸団協は、機械的失業(技術的失業)に対する実演家全体への補償という立法趣旨に基づき、会員団体部門別分配を経て団体分配を行ってきたが、昭和61年から分配に関する基本的見直しを本格化し「商業用レコード二使用料運営委員会」(当時)において、平成5年実演家著作隣接権センター(CPRA)に引き継ぐまでに56回検討を行った。」  これは商業用レコード二次使用料に関する考え方の大転換であった。かつては、徴収金額が小さく、また分配データがないために“個人の権利を無視して、団体制度(collective system)”(著作権情報センター発行大山幸房訳「隣接権条約・レコード条約解説」70頁)を基本にしてきた。すなわち団体分配であった。しかし、芸団協はCPRA設立を機に団体分配から権利者個人分配に考え方を転換した。「各人のものは各人に」「実演家のものは実演家に」「権利者のものは権利者に」という近代法の思想としては当然の考え方への転換である。  「当然の考え方」であっても、いや当然であればあるほど「転換」となると組織の構造面、意識面で痛みを伴うので、既存の秩序との摩擦を生じる。これは商業用レコード二次使用料に関する世界観の大変革であり、実務的基盤を整備すると共に団体の意識改革を伴う難事業であった。この転換期の委員会運営に伴う実務を清水芳明は事務局として担当した。正規の委員会だけでも56回開催されたが、清水はその運営を支えCPRA設立に貢献した。

2.貸レコード

 また、貸レコード業務について、わたくしは「貸レコード使用料分配ことはじめ」(機関誌「芸団協」1988.11.10号)に次のように書いた。 「芸団協で著作権法制度にかかわるしごとは、大きくは三つの段階に分けられる。初めは立法あるいは法改正の運動であり、それが実現すると次は法律を根拠に権利の行使をおこなう段階であり、そして三つ目は、権利行使の結果として使用料等を得た場合は分配する作業である。  三つのしごとは段階を追うに従い一般的には難しさを増す。これは、ある意味では浪漫に満ちた初期的段階のしごとから、具体的現実的な作業に移っていくからである。」 「貸レコードの場合も同様であり、日本レコードレンタル商業組合との折衝に15ヵ月、分配の基本に関して結論を得るまでに28ヵ月を要している。」  28ヵ月の間に、分配に関して関係団体が正規会議だけで27回の検討を行って分配業務を構築したが、これに関しても清水芳明が事務を担当し、実務的基盤づくりをした。

3.清水芳明の人間性

 実演家の著作隣接権に関わるしごとは、法改正や権利行使に伴う契約については、対外的には利害が対立する相手との抗争となり、また、分配等については、組織の内部において権利者間の争いとなる場合もあり、時には感情的もつれにも発展するが、清水は権利に関わる辛いしごとにしんどい顔も見せず、しゃらっとして対応していた。不思議な雰囲気をもつ男であった。しかし、今考えると時には泣きたい思いを我慢していたかもしれない。  清水は金沢の星陵高校出身で頭の良い人間であった。上司のわたくしは太陽を浴び太平洋を望む南国高知に生まれ育った単純な“いごっそう”であるが、清水は“柳に風”のような融通無碍な性格で、どのようなことを言われても、どのように批判されても平気であたったし、どのような難しい仕事もすべて笑顔で受け入れた。  清水は芸団協に入る前は、クラッシックの演奏家の団体である社団法人日本演奏連盟に勤め、クラッシク音楽の音楽家たちと親しく、多くの会員から可愛がられていた。清水は不思議な魅力をもった愛すべき人間であった。音楽への関心は強く、芸団協では、著作権関連の業務以外にも“第二国立劇場(現在・新国立劇場)設立推進」の運動にも関わった。  なんでもこなす清水芳明に、わたくしはいろいろ難しい業務を押し付けながら、一方では評価し、また一方では厳しい批判をしながら愛すべき清水の人柄を頼りにしてきたが、今になって考えると、それがもしかしてストレスになっていたかもしれない。組織のストレスは想像を超えるものがあり、それが人の好い清水のこころとからだを蝕ばんでいたかもしれない。  これからが清水芳明の人生だと思っていた矢先に急逝したことは、本当に辛い。もしかして、言いたいことがいっぱいあったのではないかと考えると胸が痛む。辛いことも心の奥に秘めて死んでいったのでないかと思うと可哀想で仕方ない。かつての上司というより同志として、清水芳明の一周忌の機会に改めて故人に感謝し冥福を祈りたい。

以上

コメントを投稿する




*

※コメントは管理者による承認後に掲載されます。

トラックバック