第二章―アジア源流「〝幻の河オクサスから世界は始まった〟という物語」 その2

大野遼のアジアの眼

NPOユーラシアンクラブ 会長 大野 遼

【新たな支配軸として受容された異文化宗教;仏教の本格的伝播はインド系からペルシャ系ルートへ】

―4世紀末、中国へ本格的に仏教伝来、すぐに朝鮮半島へ。日本では蘇我氏の血族支配の絆として機能―

 【アジアの眼】と題して、「アジア源流」をテーマに書き始めた第二章の初稿(13号)で、私が住む神奈川県愛甲郡愛川町の中津川の対岸東丹沢に東大寺ゆかりの仏教(密教)人脈が潜んでいることを指摘した。この稿ではアジアの仏教伝播のアウトラインを記す。  仏教は、今のネパールの南部タライ平原のルンビニ(6789世界遺産)で生まれた釈迦(シャカ族出身、ゴータマ・シッダールダ;)が「生老病死」を宿命とする世界をどう受け止めるかについて悟ったことを弟子たちと共に語り始め、死後、弟子たちの手で記録が作られ、仏陀の教え「仏教」が誕生した。この稿は仏教上の教えを語ることではないので内容の解釈はしないが、涅槃(さとり)の境地に至る考え方、方法などで、釈迦の没後、五百羅漢(比丘)による仏説の結集が試みられ、100年ほどで教団のあり方で様々なグループが生まれ(部派仏教)、2回目の七百羅漢(比丘)結集、入滅後200年、紀元前3世紀半ば頃、マウリヤ朝第3代アショーカ王(阿育王)の治下、華氏城(けしじよう、パータリプトラ)で1000人の比丘を集めて行われ(千人結集、)経典の整理が進んだ。紀元前2世紀には上座(後に小乗といわれる)仏教がスリランカから東南アジアに広がり、部派仏教の大衆部から紀元前1世紀頃、大乗仏教(一切衆生:生きとし生けるもの:他者の救済:利他行:菩提心を重視するグループ)が生まれ、「般若経」「法華経」「涅槃経」などの経典がまとめられた。紀元2世紀ごろ、クシャン朝のカニシカ王の時、500人の比丘によって第4回の結集が行なわれたともいう。  中国には、紀元前1世紀、大月氏の使者伊存が「浮屠経」伝えたと北魏の史書「魏書・釈老志」にあるなど大乗仏教が中央アジア経由で伝わり始めた。後漢の明帝の時、中国最古の仏教寺院白馬寺が洛陽郊外に建てられた。

クチャ千仏洞前の鳩摩羅什の像の画像

クチャ千仏洞前の鳩摩羅什の像

 中国への仏教伝来は、インドから中央アジアにおける王国の興亡を反映し、1.大月氏の後継王朝と考えられるイラン系のクシャン朝(1〜3世紀、北西インドから中央アジアを領域とする)、2.グプタ朝(320〜550;北インドを統一したインド王朝;480年に北西インドをエフタルに奪われる)、3.エフタル(450〜567)、4.西突厥(552〜657)のこの時期に、ガンダーラ(ペシャワール渓谷)からカシミール(渓谷)をどの王統が支配したかによって、中国に伝わった仏教文化の特色を異にしている。1.の初期は、後漢から三国時代にかけて、皇帝による徳治政治が揺らぎ、儒教の権威が失墜する中、仏教が受容された。大月氏や月氏、康姓のソグド人あるいはソグド人を祖とする西域の僧が訪れ、229年、大月氏国(クシャン朝)王派調に親魏大月氏王の金印が与えられ、魏と西域の交流は盛んだった。特に西晋の首都洛陽は、後漢以来、西域人の渡来と共に仏教伝播の中心地で「西晋末の永嘉中には四十二の仏寺があった・・・三千七百人の僧尼」(『中国仏教史』鎌田茂雄)がいたという。敦煌生まれのソグド人笠法護は「正法華経」(十巻)、「光世音菩薩普門品」を漢訳し、観音信仰の普及に影響を与えた。しかし311年、匈奴の前趙の劉聡(310〜317)が西晋の皇帝・懐帝を捕虜とし、洛陽と長安を陥し、西晋は滅亡。五胡十六国時代になると五胡が中国支配の新しい価値観として仏教導入に動きはじめ、西晋の後裔東晋も盛んに仏教を受け容れた。しかし受容の担い手の中心は、西域やインドの僧であった。

● 仏教が中国へ本格的に伝来したのは4世紀末から5世紀初め

 2.のグプタ朝(320‐550)で形成されたインド仏教がヒマラヤ・パミール高原を越えて西域に伝わり、南北朝時代の中国、そして高句麗(372)、百済(384)―新羅が仏教を公認したのは527年―に伝わったのが本格的な第一次シルクロードの仏教文化の伝播ルートであった。この時代に仏教経典をサンスクリット(梵字)から漢字に翻訳する上で大きな役割を果たしたのが鳩摩羅什(344‐413)であった(アジアの眼5号参照)。  中国の仏教受容史の中で、五胡十六国時代に中原を抑えたチベット系の前秦・第3代皇帝苻堅(357〜385)は、匈奴や鮮卑(秦もチベット系ともいわれ、唐代のウィグル・吐蕃・鮮卑、元代のモンゴル・ウィグル・チベット、清朝など異族による中国支配が続き、中国史で「漢族」の皇帝・国主は漢・宋・明と中華人民共和国)を受け容れ中央集権化を図り、漢民族を支配する為、仏教に傾倒し、クチャ出身の西域僧、仏図澄の弟子釈道安を顧問として受け入れ、道安の提案で鳩摩羅什を招へいした(呂光将軍の大軍がクチャを滅ぼし、鳩摩羅什を連れかえるが、苻堅が東晋に大敗し死亡。呂光は後秦を建て、鳩摩羅什は長安で訳経、大乗仏教の普及に努めた)。  一方仏教が本格的に中国に伝来したのは、五胡十六国時代で不安定な北中国に比べ比較的安定だった南中国の東晋の時代(317〜420)、孝武帝(373-396在位)以後とされ、「(西晋の二京においては、寺院一百八十ヵ所、僧尼三千七百余人いたのが)東晋代、百四年間には、寺院一千七百六十八ヵ所、僧尼二万四千人を数えている。西晋から東晋になると、寺院数において約十倍、僧尼数において約六倍になっている。・・・・・・・江南の地において、仏教教団の基礎がかたまったのは東晋時代であるといえる。」(鎌田茂雄『中国仏教史』第二巻 受容期の仏教)。前秦の釈道安の弟子慧遠(334〜416)が東晋で白蓮社を起し、法顕(337〜422)がホータン経由でインドに入り、チャンドラグプタ二世(376〜415)のグプタ朝下の王舎城など仏跡を訪ね、スリランカ経由海上ルートで帰国するなど、インド(グプタ朝)と中国のあいだで仏教の積極受容の動きがこの頃盛んとなってきた。  中国と接している高句麗(BC37〜668)への仏教伝播は、高句麗の小獣林王(在位371-384)の372年、チベット系の前秦の符堅王が僧・順道を高句麗に仏像と経文を贈ったことに始まる。374年には、東晋の僧・阿道も布教に訪れ、小獣林王はあくる年(375)には肖門寺を建て順道を、そして伊弗蘭寺を建て阿道を配したという(『三国史記』)。この朝鮮半島の東側に位置した新羅に仏教が伝来したのは、高句麗からで、法興王(514〜539)14年のことで、次の真興王(540〜575)は仏教を庇護した。  また百済への仏教伝来は、384年。中国南朝の東晋からインド僧・摩羅難陀が仏典を携え訪れた。「(時の百済の枕流王は)宮中で歓待し、(百済の)仏法はこのときから始まった。翌385年、漢山に寺を建立し10人の僧侶を出家させ仏教を公式に受け入れた。」(『三国史記』)「高句麗の場合、順道は大国・前秦の王の使いとして国家的な性格を帯びていたのに対し、百済では一人の僧侶にすぎない摩羅難陀を王が直接迎え入れ宮中で礼拝をしたということは、すでに百済でも仏教の受け入れ態勢が整っていたということである。このように百済は初期から仏教の受け入れに積極的であった。・・・百済文化は終始密接な同盟を結んだ日本に伝わり、飛鳥文化形成の母胎になった。(洪南基・朝鮮奨学会監事)」(「朝鮮新報」)  こうして五胡十六国時代(304〜439:北魏による統一)の前秦(351〜394)、東晋(317〜420)の時代に、インド(グプタ朝)―中国(五胡十六国・東晋時代)―高句麗・百済(新羅へは高句麗経由527)という第一次シルクロード(インド仏教直接交流ルート;ヒマラヤ・パミール越え)によってアジアの大乗仏教は普及した。

● 日本への仏教伝播は蘇我氏の時代6〜7世紀初頭

 中国が五胡十六国時代を経て鮮卑系王統である北魏による統一(439)時代に移行すると、インド北西部のガンダーラ(ペシャワール渓谷)からカシミール(渓谷)がグプタ朝からエフタル(450〜562)によって奪われた。エフタルはペルシャ系ともいわれ、北魏と交易している。インド僧に加え、ソグド系の仏僧の活動も活発になったと想像される。大乗仏教の普及がインド人からペルシャ人による形にウェートを変えた。  日本への仏教伝来は6世紀半ば(538・552?)。欽明天皇の時であった。古墳時代から飛鳥時代への移行期にあたり、欽明天皇当時中国は南北朝時代へ移行し、中国南朝の梁(502〜557)と関係を維持していた百済の聖明王から欽明天皇の代に、仏像・経典が伝えられたことをもって初めとされている。日本への初期仏教は、朝鮮半島経由の第一次シルクロード(インド系仏教の伝播)の波の最終波として伝えられた。そして敏達、用明天皇の時代を通して、積極受容派の蘇我馬子は、高句麗僧●(ケイ=くさかんむりに、恵の真ん中が虫のような字)便の元で出家した司馬達等の娘善信尼ら3人サポートすると共に、587年7月、地神祭祀:廃仏派の物部守屋の住む現在で言えば大阪府東大阪市の邸宅を襲撃、日本の仏教受容が決定的となった。この時、後の聖徳太子も襲撃に参加していた。588年に善信尼は百済に渡り2年間戒律を学び、590年、桜井寺(向原寺)に住み、11人の尼を出家させた。日本における仏教は司馬達等の娘:女性が第一歩を記した。推進者は蘇我氏。稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿、この本流4代が蘇我王朝説が産まれるほど、娘を天皇家に嫁がせ、次ぎの天皇の外戚となり、孫の天皇を思い通りにあやつることにより、天皇家を凌駕する規模、勢力を築いた。用明、崇峻、推古だけでなく、聖徳太子もこの血脈の中にいた。馬子は崇峻天皇を暗殺し、推古天皇―聖徳太子という体制を築き、後の藤原氏と同様な、天皇家の外戚(血族)支配を敷いた。しかし推古天皇崩御の後、歴史が動いた。

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 蘇我馬子の子、蝦夷が聖徳太子の長子、山背大兄王を擁立する摩理勢を殺害し、舒明(田村皇子)を皇位につけた。蝦夷の子、入鹿は、さらに山背大兄王一族を襲撃し自殺に追い込み、舒明の子で蘇我氏の血統古人皇子擁立に動き、同じ舒明の異母弟、中大兄皇子を追い込もうと、蘇我氏による天皇支配を目指した。中臣鎌足(藤原氏の始祖)が動き、645年、朝鮮半島三国からの朝貢の儀の最中、入鹿は殺害された。大化改新である。これによって朝鮮半島経由の第一次シルクロード(インド仏教受容)の歴史は一区切りとなった。  既に607年〜14年にかけて、朝鮮半島一辺倒の蘇我氏から、中国へ直接遣使(遣隋使)を送ることが聖徳太子の手で行われ、小野妹子が持参した「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」の一文で、隋の皇帝煬帝激怒させている。また舒明天皇2年(630年)には、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)を遣唐使として派遣することが始まった。第二次シルクロード(ペルシャ系ソグド人による仏教伝播;中国―日本直行ルート)の時代に移行していたのである。日本では、蘇我氏による血族支配の時代から藤原氏の時代への変化でもあった。  ペルシャ系の人々・バラモン階級が絶対的に優位なカースト制度の中から誕生し、カースト制度を否定する釈迦が悟りの境地を「仏教」として普及した信仰は、インドやペルシャ系社会では、民衆の中に浸透する中で、王が受容し、支配軸として普及されるという特色が付いて回り、後漢以後の中国では、月氏、胡人や天竺出身者が経典の漢訳を通して、中国の老荘思想に当てはめて理解する「格義仏教」もあらわれた。日本における神仏混淆、インドにおけるヒンズー教と仏教の融合を想起させる。また後漢・三国時代以降は、漢民族ではない五胡(匈奴・鮮卑・羯・●(テイ=氏の下に一)・羌)が中国支配に躍り出て、儒教や道教、老荘に替わる中国支配軸となる異文化信仰として受容されたことも興味がある。古来アジアの王統は、民族や王国、王統皇統による民衆統合の絆として宗教を利用してきた。もともと魂の救済を目的とし、利他行や菩提心を教える大乗仏教も時の権力者によって、自らの菩薩道として受け入れた反面、また権力や国家護持のシステムとして受容された。皇帝位の簒奪、殺戮、掠奪の多い中国皇帝権力の興亡や暗殺を含む天皇の血族支配と仏教が密接に関わっていたことを見ると宗教を人間はいかに都合よく受け入れたかと考えざるを得ない。

その3に続く

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