私的録音録画問題に関するひとつの思い出 ―芥川也寸志さんのこと―

棚野正士備忘録

2010.8.16 IT企業法務研究所代表研究員 棚野正士(元芸団協職員)

<小泉博著「芥川さんと著隣協」>

「芥川也寸志 その芸術と行動」

 社団法人日本芸能実演家団体協議会(芸団協)専務理事として、私的録音録画問題に大きな役割を果たした小泉博さんが「芥川也寸志 その芸術と行動」(東京新聞出版局発行、1990)の中で、「芥川さんと著隣協」(同書186頁以下)と題する文章を書いている。冒頭部分を紹介したい。  『トライアングルを指先で吊るしている丸いマークがある。略称「著隣協」、正式名「日本音楽著作権・著作隣接権団体協議会」のマークである。「チョリンキョウ」と聞いた時は、思わず笑い出しそうになったその名前は、「何だか言いにくいんだよね」と苦笑いしていた芥川さんの顔と、チリンと響くトライアングルの音色と重なって、今はとても大事な名前になってしまった。  昭和58年4月21日、芥川さんのきもいりでJASRAC、日本レコード協会、芸団協の三団体は、赤坂の「ザ・フォーラム」で記者会見を行い、芥川也寸志、高宮昇、中村歌右衛門の三代表がそれぞれ抱負を述べて、日本の音楽・芸能文化を守り育て、次代に引き継ぐという共通の目的を達成するために「著隣協」を結成することを発表した。』

<私的録音録画と著隣協>

 私的録音録画問題について、昭和50(1975)年、日本レコード協会は文化庁に「私的録音対策に関する陳情書」を提出、昭和51(1976)年には芸団協が文化庁に「著作権法の一部改正についての要望書」を提出、又昭和52(1977)年には、JASRAC、日本レコード協会及び芸団協連名で「著作権法第30条の改正についての要望書」を文化庁に提出した(この要望書には前年に三団体が実施した私的録音録画実態調査結果が裏付けとして添付された)。  現行の私的録音録画補償金制度は、平成4(1992)年に著作権法一部改正により創設されたが、制度導入に至るまでには、昭和52年権利者三団体の要望書が提出されて以来、「著作権審議会第5小委員会」(昭和52年10月―昭和56年6月、主査池原季雄上智大学教授・東京大学名誉教授)、「著作権問題に関する懇談会」(昭和57年2月―昭和62年4月、座長阿部浩二岡山大学教授)、「著作権審議会第10小委員会(昭和62年8月―平成3年12月、主査斉藤博新潟大学教授)及び「私的録音・録画問題協議会」(平成3年12月―平成4年11月、会長伊藤正巳著作権審議会会長、私的録音部会長斉藤博教授、私的録画部会長阿部浩二教授)において、15年にわたって審議されてきた。  この動きの中で、「著隣協」は私的録音録画に関する法改正のために結成され、法改正運動の中核母体となった。

<いわゆる西ドイツ方式>

 JASRAC、日本レコード協会及び芸団協の権利者三団体は昭和52(1977)年3月31日、文化庁長官に「著作権法第30条の改正について要望」を提出しているが、その主旨は「著作権法第30条(私的複製に関する複製)に追加して、“著作者・実演家・レコード製作者は、録音・録画用機器並びに録音・録画用機材(録音・録画用テープ及びこれに相当する物)の製作者から、同機器・機材の販売価格に一定率を乗じて得た金額を補償金として受取る権利を有する”旨を規定されたい。」というものであった。  このモデルは西ドイツ(当時)にあった。いわゆる“西ドイツ方式”である。 世界で初めて私的録音録画に係る報酬を定めた西ドイツは、1965年9月9日の著作権・著作隣接権に関する法律(著作権法)第53条第5項で、次のように定めている。  「著作物が、私的使用のために、放送を録画ないし録音物に収録することにより、又は録画ないし録音物を他の録画ないし録音物へ転写することによつて、複製されることが、著作物の性質上、期待される場合には、その著作物の著作者は、そのような複製に適した機器の製造者に対して、その機器の販売によつて生ずる複製の可能性について報酬の支払を目的とした請求権を有する。その機器を、この法律の適用地域において営業として輸入又は再輸入する者は、機器の製造者とともに連帯債務者として責めを負う。」(斉藤博訳「外国著作権法令集(1)ドイツ連邦共和国(西ドイツ)著作権法」30頁(著作権資料協会、1983))  著作者は著作物が私的使用のために録音、録画される可能性がある場合には、その機器の製造者及び輸入者に対して報酬請求権をもつというものである。  世界に先駆けて、西ドイツは1965年にこの制度を導入したが、それはGEMA(音楽著作権協会)の訴訟の積み重ねによって得られた成果であった。  著隣協は「西ドイツ方式」をモデルとして法改正運動を行った。しかし、著作者らは機器のメーカーに対して報酬請求権をもつ、すなわちメーカーが著作者らに対して支払い義務を負うという方式は著作者らとメーカーの対立関係を生むものであった。私的録音録画問題は権利者とメーカーの“対立の構図”の中で、著作権審議会第5小委員会、著作権問題に関する懇談会及び著作権審議会第10小委員会、私的録音録画問題懇談会と議論の場を変え、テーブルを取り換えながら公的議論を継続した。  このような対立の構図を解決に導くには長い時間を要する。しかしながら、「その後のメーカーと著作権者らの感情的な対立の緩和に効果」(「著作権法百年史」448頁(著作権情報センター、2000)[吉田大輔執筆])を及ぼし,時間の流れを変えたのは当時JASRAC理事長であった芥川也寸志さんが昭和63年8月著作権審議会第10小委員会に提出した意見書「私的録音録画問題と報酬請求権制度の導入について」であった。  意見書の提出から22年経った今改めてそのように感じる。私的録音録画補償金制度が揺らいでいるように見える今だからこそそう思う。

<芥川也寸志さんからの電話>

 昭和63(1988)年8月18日、当時芸団協職員であったわたくしに軽井沢にいる芥川也寸志さんから電話がかかってきた。病後の小さく弱々しい、しかし嬉しそうなその声を忘れることはできない。今もはっきりと耳に残っている。  この時のことを前述の「芥川さんと著隣協」(「芥川也寸志 その芸術と行動」188頁)に小泉博元芸団協専務理事が書いている。  『昭和63年8月18日、芥川さんは肺の手術をしたあと、療養中の軽井沢から芸団協の棚野事務局長に電話をかけ、私的録音録画問題について第10小委員会に提出する意見書を書いた旨を伝えた。棚野は語っている。「きれぎれの苦しい息で“書いたから届けさせる”といわれた時はびっくりしたが、その感じから芥川さんが本当に精魂こめて書きあげたんだなと思った。」  やさしい言葉で一生懸命説得につとめ、いかにも芥川さんの人柄と知性を偲ばせるその意見書は8月23日の委員会に提出されたが、著隣協結成の最大の目標が未解決のまま急逝されたことは(棚野注:平成元年1月31日逝去)、権利者にとってこれほどの不幸はなく、芥川さんもどんなに心残りだったことだろう。』

<芥川也寸志さんの意見書>

 芥川也寸志さんの意見書「私的録音録画問題と報酬請求権制度の導入について」は、昭和63(1988)年8月23日開催の著作権審議会第10小委員会に提出された。(この意見書は、平成19年6月27日開催第6回私的録音録画小委員会に小六禮次郎委員意見書添付資料としても提出されている。文化庁ホームページ掲出)  意見書は、(1)著作権者等の被っている不利益について (2)著作権制度整備の必要について (3)文化的な課題について (4)自由に伴う責任と節度について (5)企業の社会的役割と責任について (6)技術の進歩による恩恵について (7)録音と録画、機器とテープについて (8)使用料の分配の原則について、20ページにわたって詳述されている。  「(3)文化の課題について」の中で、「詩人や作曲家たちが音楽を創り、演奏家のみなさんがその音楽を世に送り出します。そして受け手は聴衆であり、視聴者であり、ホームテーピングする人たちです。この三者の環の交流こそ音楽の営みであり、その中で音楽文化は生きて発展していくのです。創り手、送り手、受け手という循環のなかにこそ音楽の営みが存在するという原理は、遠い昔も、科学技術の発達した今日、また将来とも変りはないはずです。  この環の営みが機械によって断ち切られて、コピーの増殖で音楽を消耗し尽してしまうとしたら、音楽の盛大な消費はあっても、文化としての成長発展は止まってしまうでしょう。」「音楽文化の良い循環の形成と法的な権利の調整を、考えられる最も滑らかな方法で実現しようとするこの制度の導入には、文化の問題としても非常に大きな意味がふくまれていると考えています。」  「(4)自由に伴う責任と節度について」では、「この制度によってユーザーの自由は確保され、しかも著作権者等の権利侵害のおそれはなくなるという優れた工夫なのですが、メーカーの方々には、販売の前に手数をわずらわせなければならないのです。現代の企業がもっている大きな社会的な役割や責任からいっても、是非これを引き受けて頂きたいと思っております。」「ソフトとハード、文化と経済の両立は、企業にとっても良い結果をもたらしましょう。けっして無理な負担をかけることにはならないと考えております。」  「(5)企業の社会的役割と責任について」では、「報酬請求権制度は、企業を悪者にすることによって成り立つ理論なのではないかという意見があるとすれば、これについても誤解を解くようにお願いしなければなりません。」と問題提起をしている。  「(5)企業の社会的役割と責任について」の中で述べている「企業を悪者にすることによって成り立つ理論ではない」という意見は、それまでの発想を転換する重要な問題提起であった。何故なら、権利者団体は権利者の訴訟の積み重ねで法制度化した「西ドイツ方式」をモデルとした法改正運動を展開しており、そこではメーカーとの“対立の構造”を煽る空気があったのである。  その空気を転換したのが「芥川意見書」であったと考える。“メーカー悪者論を排する”という考え方が議論の流れを変え、長年の協議を終結に導いたと思う。 1965年に世界で最初に私的録音録画に関してメーカーが支払い義務を負うという制度を導入した西ドイツ(当時)の場合は、権利者側が訴訟という法的手段に訴えて、法廷の場でメーカーと戦いながら制度を創り上げてきた歴史がある。これに対して、日本では15年という長い時間をかけて関係者がラウンドテーブルについて辛抱強く議論を重ね、相互に智恵を出し合い、話し合いの中から合意を形成し結論を得るといういわば「日本方式」によって解決が図られてきたと言える。ここではドイツ(あるいは欧米)と日本の文化の違いが底流にあるかもしれない。ドイツの場合は狩猟民族の行動様式で、訴訟により著作権法53条5項を生み出し、日本の場合は農耕民族の行動様式で著作権法30条2項を創り出した。  この二つの違いは、前者の場合、メーカーが権利者に対して支払い義務を負い、後者の場合は、ユーザーが権利者に対して支払い義務を負ってメーカーはそれに対する協力義務を負うという“方式”になって表れる。1965年の西ドイツ方式を先行モデルとして、欧米は全てメーカーが支払い義務を負うという方式であるが、日本はメーカーの協力義務の下にユーザーが支払い義務を負うという方式である。 「日本方式」によって解決が図られたことは、「私的録音録画補償金制度」の 歴史にとって重要であり、そこに至る流れを創り出しのが芥川意見書であったと言えよう。  “メーカー悪者論”を排しながらラウンドテーブルで徹底的な話し合いを行うという過程が「日本方式」であれば、それから創出されたメーカーの協力を得てユーザーが支払い義務を負うという法制も又「日本方式」であった。  「日本方式」はメーカー等の協力を得て、「私的録音録画を行う者が相当の額の補償金を著作権者に支払う」という制度であり、メーカーが支払い義務を負う欧米のシステムに比して基本的に違う仕組みになっている。  しかし、この方式は欧米と異なる例外的な仕組みだろうか。決してそうではなく、むしろ著作権法的に言えば、「日本方式」こそが原則に適った方式である。「著作物を利用した者」が「著作権者」に対して対価を支払うのは当然であるからである。  これは「他の先進諸国がなそうとしてできなかった規定」であった。(平成4年11月26日開催の衆議院文教委員会で、私的録音録画に関する著作権法一部改正法案(内閣提出第5号)が審議された際の参考人斉藤博筑波大学教授・著作権審議会委員(当時)の意見から。第125回国会衆議院文教委員会議事録第一号18頁参照)  この斉藤博教授の国会での意見によると、西ドイツでも、1965年法制定前の政府草案ではユーザーが報酬を支払う規定になっていたが、果たしてユーザーが直接任意に支払うか、又、家庭に法律が介入するのはプライバシーの保護でいかがなものかという消極論が出て、結局製造者又は輸入者がその報酬を支払うという規定に落ち着いたことが紹介されている。  その後、私的録音録画に関する報酬請求権を定めた全ての国でも、報酬は製造者又は輸入者が支払う規定となっており、私的録音録画する者が支払う規定とはなっていない。  このことを考えると、日本は私的録音録画に関して、先進国が果たそうとしても出来なかった規定をもっており、世界に誇るべき制度を有する国であると言える。  日本の私的録音録画補償金制度は、1965年西ドイツ著作権法を先行モデルとしながらも、それとは異なるが著作権の原則に忠実なシステムである。それは15年の歳月をかけて関係者の協議の中から紡ぎ出された文化的結晶であり、この制度を今後さらに進化させていかなければならない。  その場合、当事者たちは相手を“悪者”にするのではなく、相互に立場の違いを認め合った上で、その違いを超えてより高い次元に立って仕組みを進化させなければならないと感じる。立場の違いによる“対立関係”を前提としながらも、相互に敵視することなく協力しながら国家的見地に立ち日本の法制をさらに磨き上げなければならない。  「ソフトとハードの両立、文化と経済の両立は、それぞれの発展を考えるうえで不可欠の要件」(前述芥川也寸志意見書8頁)であり、そのためにこそ権利者、ユーザー、メーカーは相互に協力していかなければならないと考える。

<未来の扉は背中で開ける>

“未来の扉は背中で開ける”という言葉があるが、それは、過去を見ながら未来の扉を開けていくという意味であれば、「私的録音録画」を巡る問題も又、過去を検証しながら未来に向けて背中で扉を開いていくということが必要かも知れない。  JASRAC理事長であった高名な作曲家芥川也寸志さんの真摯な芸術家魂に想いを馳せ、優しい笑顔を思い出しながら、いま、そのように思う。

以上

コメント

棚野正士 wrote:
「著隣協」記者会見の中村歌右衛門芸団協会長

IT企業法務研究所代表研究員・元芸団協職員 棚野正士

小泉博元芸団協専務理事は「芥川さんと著隣協」(「芥川也寸志 その芸術と行動」所収)の中で、昭和58(1983)年4月21日、赤坂の「ザ・フォーラム」で著隣協(チョリンキョウ)結成を発表したと書いている。わたくしは芸団協職員としてその場にいた。  
この時、記者からの録音録画機器の発達をどう思うかという質問を受けて、芸団協会長中村歌右衛門はこう応えた。
「そうですねえ。便利なような、そうでないような。でも、やっぱり、お芝居は劇場で見てほしい。劇場の空間を流れてくる味わいが大切です」と。
当代一の歌舞伎役者、不世出の女形は配慮を重ねて決して単純な断定はせず、「便利なような、そうでないような」と機器の発達を肯定しながら、しかし一方で、芝居は空間を流れる味わいが大切だと言い切っている。
著作権に強い問題意識を持っている中村歌右衛門は私的録音録画問題にも会長として責任感を感じていて、“西ドイツ方式”導入を運動していたわたくしは、いつも江戸っ子歌右衛門から「まだなの、早くなさいよ」と叱られた。女形歌舞伎役者歌右衛門は、言葉はやさしいが気質は極めて男性的で江戸っ子気質であった。
ある時は、いきなり海部総理に頼みに行くからついておいでと言われて、総理大臣官邸に押しかけたりした。その時は、秘書官に会って頼もうという歌右衛門の心積もりであったが、官邸に行くと、海部総理は「歌右衛門先生がこられると聞いて待ってました」と総理執務室で中村歌右衛門を迎えた。口には出さないが、江戸っ子にとって遅々として進まない議論に気が急いていたのかもしれない。
機械の発達を肯定しながら、一方で芸術の本質を守り抜こうという芸術家の信念が記者会見を聞きながら感じられた。小泉さんの文章を読んでそのことを思い出す。

2010-08-17 18:10:19

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